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チャールズ・トンプソン (アメリカ)
【 1970 〜 2026 】



チャールズ・ビクター・トンプソンは、1970年6月13日、アメリカ・テキサス州ハリス郡で生まれた。


1998年4月29日夕方、トンプソンは恋人のグレンダ・デニース・ヘイスリップ (38歳♀) のアパートを尋ねる。

アパートにはヘイスリップとダレン・キース・ケイン () がいた (ドキュメンタリーによるトンプソン本人の証言によると、ヘイスリップがトンプソンに「ケインと寝た」と告白し、ヘイスリップがトンプソンと交際しているにもかかわらずケインと関係をもったという。ただし、周囲の人によるとヘイスリップはトンプソンに別れを告げケインと交際したとされる) 。

警察は通報により家に駆けつけると、トンプソンに帰るよう告げた。


翌日30日、アパートを後にしてから約3時間後、トンプソンは再びヘイスリップのアパートを訪れた。

部屋の前に到着すると、トンプソンは玄関のドアを蹴り破り室内に侵入した。

侵入するなりトンプソンはケインの首と胸を4発撃って射殺する (後の法医学的証拠により即死した事が判明している。ただ本人の証言によると初めにケインがキッチンからナイフを取り出し脅してきた為、やむを得ずクローゼットから銃を取り出し撃ったとされる) 。

次にトンプソンはヘイスリップに狙いを定め、銃に弾丸を再装填した。

そして、ヘイスリップに侮蔑的な発言をした後、顔面に向かって発砲した。

銃弾はヘイスリップの頬を貫通し、義歯の破壊と舌をほぼ完全に切断する程の破壊的な内部損傷を引き起こした。

銃撃後、トンプソンはアパートを出ると銃を近くの小川に捨てた。

その後、トンプソンは親友ダイアン・ゼルニアの自宅を訪れ、銃撃の詳細を説明した。

ゼルニアはトンプソンの父親に連絡し、父親はその日の朝遅くにトンプソンを連れ当局へ自首した。

ヘイスリップは救急ヘリコプターで病院に搬送され緊急手術を受けるが、植物状態となり数日後に生命維持装置が外され死亡した。

逮捕後、トンプソンは殺人罪で起訴された。

検察はトンプソンに対して死刑を求刑した。

ただ、トンプソンの死刑判決を確実にする為には「将来の危険性」を証明する必要があった。

検察はトンプソンが殺人事件への関与している事を証明出来る唯一の証人であるゼルニアを裁判に招聘する予定であった。

すると、トンプソンが裁判を待つ間、リードとハンフリーという2人の囚人にゼルニア殺害を依頼していた事が判明する。

リードからの情報を得た法執行機関は、ゲイリー・ジョンソン捜査官を殺し屋に扮装させ潜入捜査を計画した。

ジョンソンは会話を録音する為に盗聴器を装着し、面会ブースでトンプソンと会った。

トンプソンはジョンソンに凶器を回収し、ゼルニアを殺害する見返りに1500ドル (約20万円) を提示した。

トンプソンは面会ブースのガラスにゼルニアの住所と凶器の位置を示す手描きの地図を示し、ゼルニアの家族と車両について詳細に説明した。

裁判での中心的な法廷闘争は、ヘイスリップの死因であった。

ケインは即死であったが、ヘイスリップは最初、撃たれたがその場では死なず、救急ヘリコプターで搬送された。

救急隊員と外科医は、舌のを腫れと銃弾による内部損傷の為、気道確保は困難を極めた。

弁護側は専門家を証人として召喚し、証人はヘイスリップの死の直接の要因は銃撃ではなく、医師による医療過誤によるものだと主張した。

医療チームはヘイスリップの経鼻気管挿管を正しく出来ず、その後、呼吸をモニタリング出来なかった為、徐脈により昏睡に陥ったと証言した。

実際、ヘイスリップの父は、医師から「命に問題はない」と1度言われており、その数時間後に突如脳死状態だと告げられた。

治療に問題はないと主張する病院に対して「医者は医者を庇う」と痛感したと後に述べている。

トンプソンはヘイスリップの家族が1週間後に生命維持装置を外す決定は、自身のヘイスリップの死に対する刑事責任を免れる事が出来るはずだと主張した。

しかし、検察側は担当医の証言を根拠に弁護側の主張に反論した。

担当医らは顔面への銃創で舌がほぼ切断され、その時点で生命を脅かす緊急事態であったと証言した。

そもそも舌には血管が密集しており、ほぼ切断状態となれば出血性ショックで死に至るか、血が肺に至る事による溺死する状況に差し迫った危険な状態だと述べた。

判事は
「テキサス州刑法によれば、同時発生の原因が明らかに結果をもたらすのに十分であり、かつ行為者の行為が明らかに不十分である場合を除き、当該者は刑事責任を負うとある。ヘイスリップ氏が治療を受けなければおそらくその場で死亡していた事を認めざるを得ない」
と述べた。


1999年4月14日、トンプソンは殺人で有罪判決となり、死刑が言い渡された。

トンプソンは再審理の為に公判に戻され、州はジョンソンの録音による証拠なしにトンプソンがいかに将来的な危険性を備えているか再立証しようとした。

検察官のヴィック・ウィズナーは、
「この殺人事件は復讐、憎悪、悪意による犯罪であり、更生の余地はない」
と主張した。

また、トンプソンの暴力的な傾向を裏付ける証拠として、ロビン・ローズを召喚した。

ローズは1998年8月にトンプソンと共に拘留されていた際、トンプソンから証人として出廷すると予想される人物の「暗殺リスト」を渡され、殺害するよう依頼されていた。

トンプソンが提示したリストにはゼルニアも含まれており、ローズは
「彼ら (リスト内の人物) を殺すか、来ないように説得してくれ」
と指示されたと話した。

弁護側は、ローズの証言には信頼性がないと異議を唱えた。


2003年4月9日、テキサス州控訴裁判所は、トンプソンの再審理命令を取り消した。


2005年10月28日、トンプソンは再び死刑判決が下された。

トンプソンは2度目の死刑判決を受けた後、リビングストンのポランスキー刑務所に移送されるまでハリス郡刑務所に拘留された。

トンプソンは脱獄を計画し、受刑者が所持を許可されている合法的な方法でいくつかの品物を独房に密かに持ち込んでいた。

それは手錠の鍵、偽の身分証明書、カーキ色のズボン、紺色のシャツ、白いテニスシューズなど私服一式も含まれていた。


同年11月3日午後、トンプソンは弁護士との面会の為、面会室に連れて行かれた。

1人になると、トンプソンは手錠を外し、オレンジ色の囚人服から私服に着替え、出口に向かって堂々と歩いた。

そして、司法長官事務所の捜査官である事を示す偽の身分証明書を少なくとも4人の刑務所職員に見せた。

正面玄関には最後の警備員がいたが、トンプソンは落ち着いており、ハッタリを交わしてまんまと外に出る事が出来た。

外に出たトンプソンは貨物列車で東テキサスへ向かい、そこでオープンカーに宿泊した (トンプソンは後にこの脱獄した後の生活を「冒険」と呼び、「汚れながらも幸せな気分だった」と回想している) 。

最終的にトンプソンはルイジアナ州シュリーブポートに辿り着き、そこで自転車を盗むと、ハリケーン・カトリーナの避難者を装って得たお金で逃走した。


同年11月6日、トンプソンがカナダ行きの航空券の送金手続きをする為、海外の友人に電話をかけようとした所を密告により警察が逮捕した。

逮捕された時、トンプソンは酩酊状態で、身柄はテキサス州へ送還された。

このトンプソンの脱獄は、21世紀アメリカにおいて、現在まで死刑囚が刑務所から脱獄に成功した唯一の例であった (死刑囚以外、また20世紀には存在する) 。


2007年10月31日、テキサス州控訴裁判所はトンプソンへの2度目の死刑判決を支持した。


2008年10月6日、アメリカ最高裁判所がトンプソンの上訴を棄却した。


2013年4月17日、テキサス州控訴裁判所は、トンプソンの最初の人身保護令状申請を却下し、2016年3月9日の2回目の人身保護令状請求も却下した。


2019年2月18日、第5回巡回控訴裁判所は、トンプソンの特定の請求に関する控訴証明書の請求を認め、連邦人身保護令状の却下に対する控訴を審理した。


同年10月29日、第5回巡回控訴裁判所は地方裁判所の決定を支持するが、2020年5月7日、再審請求は棄却された。


2021年3月22日、アメリカ最高裁判所が連邦人身保護令状請求に対する控訴を棄却した為、これによりトンプソンは控訴の全てを使い果たし、打つ手がなくなり死刑が確定した。


2025年9月11日、トンプソンの死刑執行令状が発行され、2026年1月28日に設定された。


同年10月、死刑執行日が設定されたトンプソンはインタビューに答え、死刑執行の猶予の可能性は非常に低いと認めながらも、死刑判決に対して引き続き争っていくつもりだと強調した。


2026年1月28日、ハンツビル刑務所で致死量の注射によるトンプソンの死刑が執行された。

享年55歳。

トンプソンの最後の言葉は、犠牲者の家族に対する謝罪と許しを求めた。

更にトンプソンは「勝者はいない」と言い、

「28年経った今、この処刑は更なるトラウマと犠牲者を生む」

と述べた。

トンプソンの最後の食事だが、朝食はスクランブルエッグ、グレープゼリー、オートミール、アップルソース、ビスケットという標準的な最後の食事を摂り、昼食はフライドチキン、ピントビーンズ (うずら豆) 、さつまいも、にんじん、スライスしたパン、水であった。

トンプソンは21世紀以降、死刑囚として唯一脱獄に成功した人物として様々な媒体で取り上げられている。

2008年、作家ロジャー・ロドリゲスの伝記『The Grass Beneath His Feet : The Charles Victor Thompson Story』が出版された。

この中でロドリゲスは脱獄に関する詳細を書き記しているが、トンプソンがどのようにして手錠の鍵を手に入れたのかは明らかにしていない。

また、トンプソンはNetflixの実際に起きた犯罪事件を描いたドキュメンタリーシリーズ『I AM A KILLER』シーズン1の第5話「確定的殺意」で取り上げられている。

2012年8月15日に放送が開始したドキュメンタリーチャンネル『Extreme Prison Breaks』で、「Runaway Chuck」というエピソードで紹介された。

更に2025年、トンプソンはイギリスのチャンネル5の番組『Dead Man Walking : Dan Walker on DeathRow』で特集されている。


最後にケイン射殺後、ヘイスリップを撃つ際に言い放ったトンプソンの発言で終わりたいと思います。

「お前も撃てるぞ、クソ女」


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       グレンダ・デニース・ヘイスリップ



《殺人数》
2人

《犯行期間》
1998年4月30日



∽ 総評 ∽

恋人と浮気相手を殺害したトンプソン。

トンプソンは死刑囚として脱獄した事でその名を知られた。

21世紀以降、誰一人他に実行出来た者はおらず、その名を後世に残した。

トンプソンはヘイスリップの死は病院のせいだと主張し控訴を繰り返した。

確かに病院側のミスの可能性も否定出来ないが、正直そんな事はどうでもいい話である。

仮に病院の責任でヘイスリップが死んだとしても、トンプソンはケインを射殺し、ヘイスリップを瀕死の状態にしたのは事実だ。

『I AM A KILLER』ではヘイスリップの息子も出演しインタビューに答えており、
「そもそも撃たれなければ病院にいない。病院のせいにする。確かに責任を押し付け易い対象だ。俺だって同じ状況ならそうしたと思う。だが結局お前 (トンプソン) が銃口を顔に向け引き金を引いた。至近距離で撃った事は火傷が証明している」
と話しており、まさにその通りである。

2人殺害か、1人殺害と1人重傷というほとんど変わらない差でしかなく、そんな事にこだわって死刑を回避しようするのは虫がよすぎる。

『I AM A KILLER』は本人の発言や周囲の証言をまとめて再現したドラマ等ではなく、本人が直接出演して証言している。

実際その姿を見たが、ニヤニヤと常に半笑いの表情で、殺人を犯した犯罪者のキマった目が不気味でなんとも言えない新鮮さに複雑な感情が湧いてきた。

現在、シーズン6まで放映されているので、今後、このドキュメンタリーに登場する殺人鬼たちの告白を実際に見て掲載していきたいと思います。