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ホシャン・アミニ (イラン)
【 1936 〜 1963 】



ホシャン・アミニは、1936年、イラン・テヘラン県バラミンで生まれた。

アミニの幼少期についてはほとんど知られていないが、大家族に生まれ父親は家を出て行った。

その為、貧困の中で育ったアミニは、家族から身体的虐待を受けた。

アミニは成人後も独身で無職であり、パルヴィズ・ヤハギ (ヴァイオリニストで有名な作曲家) やパーフィズ・シーラズィー (ペルシアの詩人) を好んで読んでいた。

アミニは見習いトラック運転手を目指していが、ヴァラミンの商人から金をゆすり取っていた。

ある時期、アミニは突如「世界から腐敗を一掃する」事に執着を始める。

そして、『殺人者アスガル』と呼ばれ、20世紀初頭にイランとイラクで33人もの少年を強姦して殺害したアリ・アサー・ボルージェルディに触発され殺人を始める。

アミニの手口は、主にヴァラミンの街頭で見掛けた弱い立場の少年たち (成人男女も) を誘拐、または人里離れた地域に誘い出すやり方だった。

そして、被害者の両手を縛り、強姦し拷問を行い、最終的に絞殺した。

殺害後、ナイフで被害者の首を切断し、遺体を近くの井戸に放り投げるのが常だった。


1954年3月、アミニの最初の犠牲者が首のない状態でネマタバードの水道橋で発見された。

そのわずか1ヶ月後、首を切断された別の若い女性の遺体もダウラタバードの水道橋で発見された。

このような陰惨な殺人がヴァラミンとその周辺で数年間に渡って行われた。

時折、アミニは共犯者 (名前不明) の協力を受け、数人と共に酒に酔った状態で少年を誘拐し、交代で強姦すると肉を切り刻み殺害した事もあった。

警察は捜査を続けるが犯人を逮捕する事が出来なかった。


1960年代初頭、メスガラバードの墓地で身元不明のドイツ人男性の遺体が発見される。

犠牲者が外国人という事もありニュースは全国に大々的に報道された。

警察は本格的に動き始めるが、手がかりを掴む事が出来なかった。

その後、まもなく子供を食べる人食いが街に現れたと噂が広がり始め、少年の失踪事件と相まって住民たちはパニックに陥った。


1962年、裁判所職員が近くの井戸に繋がる血痕を偶然見つけ警察に通報した。

井戸には両手を後ろで縛られ、首を切断された2人の少年の遺体が発見された。

地元の行方不明届を調べた結果、2人の犠牲者は最近行方不明となり、地元のチケット売り場で最後の姿が確認された事がわかった。

その後、しばらくしてアミニは逮捕された。

ただ、アミニ逮捕には諸説あり、1つは井戸の近くで不審な行動をとる若い浮浪者を見つけ尋問した。

浮浪者はホシャン・アミニと名乗り、殺人には一切関与していないと断固認めなかった。

しかし、アミニはニュース記者のインタビューを要請し、その場でドイツ人男性だけではなく数人の子供を殺害した事を告白したというもの。

他の説では警察がテヘランで発生した一連の自転車窃盗事件でハミドという男性を逮捕し、ハミドが共犯者と主張するアミニの住所を教えた。

警察がアミニの自宅を訪れるが姿がなく、警察はアミニを一連の殺人事件の第一容疑者として特定した。

最終的に妹の家で箱の中に隠れていた所を発見し逮捕されたのだが、アミニは逃走している時、女装して発覚を逃れようとしていたというものだった。

警察はアミニから提供された情報に基づきさらなる遺体を発見し、ドイツ人男性がエルンスト・ランゲという経済コンサルタントであると特定された。

尋問に対し、アミニはテヘランで酔っ払ったランゲに偶然出会い、拉致してメスガラバードまで連れて行き、金を奪って井戸に投げ込んだと主張した。

アミニは尋問によりイラン北部での犯行を含む計67人の殺害を告白した。

アミニは自身が犯した犯罪に対して嬉々として話し、一切の反省や後悔がなかった。

このアミニの犯行はメディアの騒動を引き起こした。

アミニは一見穏やかで物腰が柔らかく、丁寧な話し方だった為、これほど残忍な犯罪を行ったととても思えず、そのギャップに世間は震撼した。

また、アミニは髪をボサボサに伸ばし口臭が酷く不潔で、独特のフェルト帽を被っていた事から一部の新聞が『The Felt Hat Killer (フェルト帽の殺人者) 』というあだ名を付けた。

報道陣のインタビューに対し、アミニは『殺人者アスガル』に触発されたと主張した (『殺人者アスガル』も児童ばかり標的とした) 。

犯罪発覚後、アミニは家族から公然と縁を切られ、裁判中や投獄中、ほとんどの家族が一切の接触を拒否した。

短い裁判の後、アミニは全ての罪で有罪となり死刑が言い渡された。

死刑執行を待つ間、兄がアミニを訪ねるが、兄はアミニの犯罪を叱責し、怒りに震えながら立ち去った。

ヴァイオリニストのヤハギは、アミニが自身を崇拝している事を知り、5回に渡って刑務所を訪れた。

ヤハギはアミニとのインタビューの際にカセットテープで録音したが、その残酷な詳細の内容は遺族への配慮により公開は禁じられた。


1963年12月、アミニは別の殺人犯サファル・アリ・ラヒミと共にドゥープハーネで公開絞首刑が執行された。

享年27歳。

アミニの処刑にはヴァラミンとテヘランから多くの傍観者が殺到し処刑を見届けた。

死刑執行前にアミニはシーラズィーの詩を歌う事を許された。

処刑後、遺体は本人の希望により兄に引き渡され埋葬されたが、場所に関しては非公開であった。


2015年、有名な俳優で映画監督でもあるザカリア・ハシェミは、アミニの犯罪を部分的にフィクション化した「最後の処刑」というタイトルの本を出版している。

現在、アミニはイラン史上最も多くの殺人を犯した連続殺人犯とされている。


最後に執行直前の数分間、アミニが2人のジャーナリストに語った言葉で終わりたいと思います。

「私を殺しても何も解決しない。原因を突き止めろ。医者はたくさんいる。テヘランには私のような人間は3000人はいる。私は恐れない」



《殺人数》
67人

《犯行期間》
1954年3月〜1962年



∽ 総評 ∽

『The Felt Hat Killer』または『The Ghost of the Qanat Wells (カナート井戸の幽霊) 』等と呼ばれ、主に児童を中心に67人を殺害したアミニ。

この67人というのはわかっている範囲でイラン史上最悪の犠牲者数であった。

しかもその犯行を9年足らずで行っており、1年に約7、8人を殺害するという異常なペースであった。

比較的古い時代で国もイランという事で詳細が少ないが、犯行は犠牲者の首を切断し遺体を井戸の中に放り込むという残忍さであった。

刑務所に来た兄に非難され叱責されたアミニだが、アミニがなぜこれ程異常になったのか。

家族からの身体的虐待が原因だと思われるが、それが仮に刑務所に来た兄によるものであったのなら兄にも大いに責任がおり、叱責する権利はない。

時代と国柄もあるのだろうが、67人も殺すというのは驚嘆の一語に尽きる。

現在、イランはアメリカから攻撃を受け国内情勢が混沌としているが、国内の状況と犯罪というのは切っても切り離す事が出来ず、今後どうなるかわからない不安な状況下では犯罪が多発する。

戦争が長引けば長引く程、このアミニのような凶悪犯が多発する可能性があり、一刻も早い終息を願う。