
トミ・ナカリ (フィンランド)
【 1967 〜 】
トミ・タネリ・ナカリは、1967年、フィンランド・ミッケリで生まれた。
1992年8月17日、ナカリと内縁の妻は失業手当を受け取った直後、首都ヘルシンキへの旅行を計画した。
しかし、結局ピエクサマキに行き着き、そこで友人たちと様々な酒場で飲み明かした。
その後、店が閉まり、友人たちも家にいなかった為、ナカリたちはミッケリへの帰路に着いた。
駅に着くと、家の帰路の途中でナカリは元受刑者と出会った。
すると、ナカリと妻が口論となり (詳細不明) 、ナカリは妻を置いて近くのグリルバーで夜を明かした。
翌朝、ナカリは二日酔いを治そうと更に大量のビールを飲み始め、ビールにロラゼパム (不安や緊張を和らげるベンゾジアゼピン系の抗不安薬) を混ぜて飲んだ。
妻の事が心配になったナカリは、よろよろになりながら何とか家にたどり着き、そこで妻と会い今までの経緯を話した。
しかし、妻はナカリの説明を信じなかった。
腹を立てたナカリは家に置いてあった様々な薬を飲み始め、妻はその事を叱った。
激昂したナカリは長刃のナイフを手に取り、それで妻を10回刺して殺害した。
その凄まじさはナイフが背中まで貫通する程であった。
トドメに喉も切り裂くと、布やタオルで遺体を覆い眠りについた。
ナカリは目覚めると、壁に血飛沫が飛び散っており、何が起こったのか思い出せなかった。
寝室に入ると妻の遺体が床に横たわっており、自分が殺してしまったと悟ると自らの手首を切って自殺を図った。
しかし、傷が浅かったため出血が止まり、浴槽で血を洗い流した。
その後、クローゼットで首を吊ろうとしたがそれも失敗した。
ナカリは街を離れ、酒と薬物に溺れながら過ごし、殺人については隠した。
結局、ナカリは警察に拘束され自宅に連れ戻された。
家には腐敗した妻の遺体が横たわっており、ナカリは医療法務セキュリティセンターに移送され、人格障害と診断された。
この精神状態が考慮され、当初、裁判で12年4ヶ月の刑が言い渡されていたが8年に減刑された。
1998年、ナカリは刑務所から釈放され、母親の家に戻った。
数ヶ月後、ナカリは母親と掃除の事で口論となり、酒に酔ったナカリは激怒し、母親を殴りつけ地面に叩きつけた。
そして、包丁とハサミを手に取ると母親の首と顔を19回刺して殺害した。
その後、母親の遺体を洗面所まで引きずり、布やタオルで覆った。
逮捕された際、ナカリは前回同様何も覚えていないと主張した。
ミッケリ地方裁判所はナカリに懲役10年8ヶ月の判決を下した。
2006年6月、ナカリは釈放されるとミッケリに戻り、そこでユヴァスキュラ (フィンランド中央スオミ県にある大学都市) 出身の26歳のアンナ・エミリア・シムニセアヌと出会った。
シムニセアヌは家族や友人に新しい恋人ナカリの事を話していたが、ナカリの過去について知ると交際を反対された。
しかし、シムニセアヌは交際を続け、2008年にはインドへの旅行を計画した。
2008年1月10日、ナカリとシムニセアヌはミッケリで別荘を借り、ナカリの親戚を訪ねる予定であった。
しかし、道中の車内で口論となり、ナカリはナイフを取り出すとシムニセアヌに向けた (この時ナイフがシムニセアヌの腕をかすめている) 。
別荘に到着すると、ナカリは再びシムニセアヌを襲い、地面に倒して無力化させると、首を絞めて殺害した。
シムニセアヌの両親が数日経っても戻らなかった為、ミッケリ警察に通報した。
同年1月15日、シムニセアヌの遺体がコテージの庭で発見され、警察はナカリを捜索するが見つからなかった。
警察はナカリに対して逮捕状を発行した。
2009年3月、ナカリは逃走を続けたが、クオピオでついに逮捕された。
同年、ナカリは懲役14年6ヶ月の判決が言い渡され、遺族に1万6000ユーロ (約200万円) の賠償金を支払うよう命じられた。
判決はナカリの申請問わず自動で控訴されたが、東フィンランド裁判所によって支持され、現在も刑務所に収監されている。
《殺人数》
3人 (他犯罪多数)
《犯行期間》
1992年8月18日〜2008年1月10日
∽ 総評 ∽
内縁の妻、母親、恋人と、これでもかと身内を殺害してきたナカリ。
若い頃の詳細がない為わからないが、最初の内縁の妻殺害の際に元受刑者と会ったとある事からすでに何らかの犯罪を犯して過去に刑務所にいたのは間違いない。
どのような罪で刑務所にいたのかわからないが、その後の判決でもわかる通り激甘な司法のせいで野獣を野に放った事でその後の犯罪が続いていった悲劇の連鎖と言える。
フィンランドは8年連続「世界一幸せな国」に選ばれているが、それは犯罪者への過剰なまでの甘さにも繋がっている。
最初の殺人で懲役8年、次が10年8ヶ月、最後が14年6ヶ月と「これって殺人で裁かれた判決?」と書いていて疑問を呈したくなる判決である。
しかも、1回ではなく3回も続けているのにである。
「徐々に刑期は増えている」といえば聞こえはいいが、3回目で最後に下されたのがたったの14年である。
アメリカなら初犯の強盗でも余裕でこのくらいの判決になる可能性がある。
一体何をもって幸せな国なのか、甘いのは善良な国民だけにして欲しい。
コメント
コメント一覧 (11)
家族にいたらと思うとゾッとしますよね。
日本も法律上、両親兄弟は見捨てる事出来ませんからね。
こんなやつでも助けないといけないと考えたら辛すぎますよ。
甘いな。
判決から14年以上たっている点を考えるととっくにしゃばにいる可能性も高いですよね。
エルサルバドルじゃ写真のもんもんの時点でセコット(ギャングやテロリスト、人殺しを閉じ込めて管理するためだけの隔離施設、ここで死なせること前提)送りなのにね。
しかも人殺しならなおさら。
そのうえ、北欧というお国柄。
刑務所送りといっても規律はそうきつくない寄宿舎のようなやつでの生活。
受刑者の社会復帰や解放を前提としたシステムですからリハビリや訓練がメイン。
へたしたら我が国の集団生活のほうがよっぽどきついだろといいたくなるようなレベルらしいです。
罰どころかごほうび。
浮かばれんよ犠牲者も被害者もその家族も。
甘過ぎですよ。
3人ですよ?3人。
それで14年て一体どういう考え方ならそうなるのか聞いてみたいですよ。
この人は3件とも、殺人のきっかけは口論ですね。頭に血がのぼると何をするかわからない人なのでしょう。被害者の家族は交際に反対していましたが、当然だと思います。身勝手な動機で二人も殺した人との交際を喜ぶ人なんていません。
そうですね。
沸点やカッとなる内容も人それぞれだし判断できませんからね。
「恋は盲目」とはよくいいますが、その代償はあまりに大き過ぎましたね。
死刑判決が言い渡されましたが、不適切な取り調べなどでの自白などを理由にテキサス州の控訴裁が控訴しました。
1966年の10月にに乙A・M助さん殺害での有罪判決と死刑判決はなくなりました。
その来年の1967年の2月に裁判が裁判が行われる予定でしたが、その年の1月3日に死去。
調べていただけたら幸いです。
結構古いですね。
今度調べてみます。
福祉が厚いからといって犯罪者が生まれないわけではないですし、更生・治療は難しくて関係ないという事ですね。
ただしそれでも懲役21年らしいが