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ジョン・モーガン (アメリカ)
【 1980 〜  】



1995年4月27日午後6時30分頃、ジョン・モーガン (当時14歳) は、アメリカ・イリノイ州リンカーンにある自宅で眠っていた。

すると、祖父のキース・シアロック (61歳) がモーガンを起こし、先日授業に遅刻し、校内で居残りさせられた事を問いただした (4月のある日モーガンが遅刻し学校に居残った事があった) 。

キースはモーガンを10分から15分程度叱責し、モーガンは反発し怒鳴り始めた。

キースはモーガンを懲らしめる為、ベルトでモーガンの臀部を叩いた。

ベルトによる殴打は5回続き、殴り終わるとキースはその場を離れた。

モーガンはキースの寝室に行き、隠している銃と弾薬を探した。

そして、バスルームへ向かい、そこで自殺するつもりであった。

しかし、考え方を変えたモーガンは、銃に8発の弾丸を装填し、狙いを定めてボトルに向かって発砲した。

実は以前、モーガンはキースに「殺す」と脅迫された事があり、キースの銃を発砲すれば脅迫を実行しにやって来ると考えた。

モーガンがバスルームを出ると、物凄い剣幕でキースがやって来た。

モーガンは躊躇なくキースを撃って射殺する。

一連の様子に驚いた祖母ライラ (59歳) は廊下で叫び声を上げ、家から逃げ出そうとした。

モーガンは背中からライラを撃ち、倒れたライラを更に撃とうとするが銃弾が詰まり断念した。

リンカーン警察署に緊急通報が入り、警察官がシアロック邸に向かった。

数分後、警察官が到着すると、モーガンは拳銃と弾丸が入った箱を警察官の1人に渡し、

「僕がやった。奴らを殺したんだ」

と言った。

ライラは前庭でうつ伏せの状態で倒れているのを発見され、キースは家の中で倒れていた。

ライラは背中に銃創があり、キースは左こめかみに銃創を負っていた。

モーガンはその場で逮捕された。

当初、モーガンの裁判はローガン郡の少年裁判所で行われる予定であった。

しかし、1987年に制定された法律により、モーガンは成人として裁かれる事となった。

法廷でモーガンは殺人の動機について、学校での居残りが原因で口論になった事だと話した。

また、モーガンは裁判で祖父母と暮らした10年間で常に精神的、肉体的虐待を受けていたと証言した。


1996年、判決を受ける前に、モーガンは殺人について謝罪し、

「自分の行為を深く後悔しています。叔父のダグ (殺害された祖父母の息子) とその家族、そして、私自身の家族も傷つけてしまいました。傷つけた人々に謝罪したいと思います」

と述べた。

モーガンはライラに対する第一級殺人で懲役58年が、キースに対する第二級殺人で懲役17年、合計75年が言い渡された。


2001年、モーガンは控訴するが、イリノイ州最高裁判所は判決を支持し、控訴を棄却した。


2005年、ローガン郡の裁判官は、モーガンの再審請求を却下した。

モーガンが仮釈放の資格を得る可能性は、2032年9月、52歳の時である。


最後に警察官の取り調べで「なぜこんな事をしたのか?」と尋ねられた時のモーガンの返答で終わりたいと思います。

「奴らが俺を怒らせたからだ。我慢出来なくなって撃ったんだ」



《殺人数》
2人

《犯行期間》
1995年4月27日



∽ 総評 ∽

祖父母を射殺したモーガンだが、詳細がない為いまいち生活環境がわからない。

モーガンの両親を含む祖父母と住んでいたのか、両親はおらず、祖父母と3人で暮らしていたのか。

ただ、祖父母と10年間暮らしていたのは事実のようなので、そうなればモーガンはわずか4歳の時から一緒に居る事となる。

その10年間で祖父母から精神的、肉体的に虐待を受け続けていたようだが、こればっかりは事実なのか、虐待といってもどの程度なのか詳細がなくわからない。

両親も一緒に住んでいたのなら、祖父母の虐待があれば両親が何とかするはずなので、おそらく両親はおらず3人で暮らし、また、ベルトで叩くというのは普通の躾とはかけ離れている為、虐待も日常的に行われていたのではないかと思う。

正直、家族間の揉め事であり、赤の他人が被害に遭っていないのでまだましだが、当時、14歳の少年に懲役75年を言い渡せるアメリカの司法を少しは日本も見習って欲しいものである。