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ラッセル・スメルカー (アメリカ)
【 1955 〜 2011 】



ラッセル・アルビン・スメルカーは、1955年、アメリカ・イリノイ州ジョリエットで生まれた。

スメルカーは窃盗犯として知られ、ウィル郡刑務所に収監されていた。

釈放後、スメルカーはリンカーン大学に入学する。

大学でスメルカーは1つ下のマイケル・マンスフィールド (19歳♂) と知り合う。

マンスフィールドはイリノイ州ローリング・メドーズ出身で、校内でも優等生として知られていた。


1975年9月18日深夜、マンスフィールドの寮の部屋にスメルカーが現れる。

スメルカーは大量のレコードアルバムを抱えており、一時的に保管して欲しいと申し出た。

マンスフィールドは承諾しスメルカーはその場を去った。

その後、スメルカーは週末に地元のジョリエットで過ごす為にヒッチハイクで戻った。

すると、女子学生2人の寮でアルバム150枚と高価なギター1本が盗まれるという事件が発覚する。

事件を知ったマンスフィールドは預かったアルバムがスメルカーが盗んできたものだと確信し、アルバムを寮のゴミ捨て場近くに捨てた。

だが、マンスフィールドがアルバムを置いていった様子を目撃した学生が学生部長に報告した。

マンスフィールドは呼び出され尋問される。

マンスフィールドは盗んだ事を否定し、アルバムはスメルカーに頼まれて保管していただけだと主張する。

また、ギターについては渡されていない為、わからないと述べた (ギターはスメルカーがジョリエットに持って帰っていた) 。

必死に無実を訴えたマンスフィールドだが、訴えられ起訴された。

しかも、ギターの価値が650ドル (約20万円) であり、窃盗は150ドル (約5万円) を超えた為、重罪となった。

ただ、スメルカーが大学に戻ると、マンスフィールド同様逮捕され起訴された。

ローガン郡の州検索官は、マンスフィールドにスメルカーへの不利な証言を法廷でする事に同意すれば起訴を延期すると申し出た。


同年12月18日、マンスフィールドは起訴延期合意書に署名し、その後、クリスマスと新年の休暇を取ってローリング・メドーズに戻った。


同年12月31日午後2時頃、マンスフィールドは両親が住む実家で電話に出た。

マンスフィールドは両親に
「1時間ほど出掛けて戻って来る」
と述べ、家を出て行った。

マンスフィールドは車ではなく徒歩で出掛け、財布は家に置き忘れていた。

それが両親がマンスフィールドを見た最後であった (マンスフィールドの遺体は現在まで発見されておらず、また電話の相手やどこに向かったのかも不明。ただ、行方不明となった日はマンスフィールドがスメルカーに対する証言を法廷でする予定の6日前であった) 。


1976年6月2日、リンカーン在住の不動産会社で働くルース・ルイーズ・マーティン (51歳♀) が職場に現れなかった。

不審に思った同僚が2回マーティンの自宅を訪れるが、マーティンは居らず、また車もなかった。

その日の午後遅く、ガレージで血痕と使用済みの切断された .22口径の弾丸が見つかった。

マーティンの最後の目撃情報は夫で、その日の朝6時40分であった。


同年6月4日、リンカーンから30マイル (約50km) 北のブルーミントン・ホリデイ・インの駐車場で、マーティンの車が発見される。

車は右前輪がパンクした状態であった。

車はマーティンが行方不明となった同じ日の午後6時にモーテルの宿泊客によって最初に目撃されていた。

車のトランクのマットは大量の血で覆われていた。


同年6月8日、マーティン地区の高速道路の向かい側で釣りをしていた家族が、キッカプー・クリーク公園内で部分的に焼けた血の付いたTシャツを発見する。

しかし、いぜんマーティンは行方不明であった。

実はマーティンは1975年10月1日にスメルカーが起こした窃盗事件の目撃者であった。

スメルカーは窃盗事件の8日前に寮での窃盗で拘束された (前述したマンスフィールドにレコードを預けた事件) 。

スメルカーは退学処分となり、学部長の許可なしで大学に戻る事を禁止された。

マーティンがクローガーで買い物をしていた時、スメルカーがリブアイステーキ2本が入った包みを手に取った。

すると、会計せずにそのまま店を出て行った。

店の従業員ジェイ・フライは、スメルカーがステーキをジャケットの裏に隠しているのを目撃し、すぐに店長に通報した。

フライとマネージャーたちはスメルカーを追いかける。

ちょうどその時、マーティンが食料品を持って車に戻ろうとしており、スメルカーはマーティンの車の下にステーキを捨てた。

マーティンは駐車場を走り去る長髪のヒッピーの後ろ姿だけ見ただけであり、一瞬の出来事だったので当然その人物が誰なのかわからなかった。

スメルカーは捕らえられ逮捕された。

現場にいたマーティンとフライ両者がスメルカーに対する証人となった。

マーティンは最初の裁判には召喚されず、フライだけが呼ばれたが、陪審員は評決不一致で終わった。

その後、検察はマーティンを法廷に呼び2度目の裁判を行うべきたと判断したが、2度目も無効裁判となった。

そして、3度目の裁判が6月8日に予定され、前述した通りマーティンが行方不明となったのだった。

結局、マーティンは見つからなかったが、数々の証拠により誘拐され殺害されたのは明らかだった。

ただ、マーティン失踪とスメルカーを結び付ける決定的な証拠はなく、また遺体が見つかってない為、逮捕する事は出来なかった (当時はまだDNA鑑定が確立されてなかった) 。


同年10月9日早朝、フライ (24歳) と妊娠中の妻ロビン (24歳) は、リンカーンの自宅でショットガンで射殺された (お腹の中の胎児についてはどうなったか詳細不明) 。


同年10月18日、スメルカーはフライ夫妻殺害で逮捕された。

スメルカーは裁判を待つ間、メイコン郡刑務所の独房に収監された。

スメルカーは髪を伸ばし、ヒッピーのような格好をしていたのだが、それはチャールズ・マンソンへの崇拝からくるものであった。

刑務所でスメルカーはマイケル・ドレイビング (後日掲載) という囚人と出会った。

ドレイビングは1976年8月19日に親子3人を殺害して逮捕されスメルカー同様独房に収監されていた。

2人は同い年で、しかも互いにマンソン・ファミリーを崇拝していたという事もあり意気投合し、何かあれば常に一緒にいて行動していた。

2人の会話の一部を聞いたという受刑者によると、スメルカーが「自分ともう1人の男がマーティンを誘拐し殺害した」と言っていたと話し、また「マーティン殺害の証拠をリンカーン高校の焼却炉で焼却した」と述べていたと語った。

余談だが、このドレイビングとスメルカーの凄惨な犯行は同時期に行われたという事もあり、リンカーンという小さな町を震撼させた。


1977年4月、スメルカーはフライ夫妻殺害の罪で懲役300年が言い渡された。

イリノイ州が死刑を廃止したのは2011年なので、スメルカーは十分死刑になる可能性があったのだが、当時、アメリカでは完全に死刑を廃止し、再び死刑を復活させた直後であり、死刑判決をあまり下さない風潮にあった (実際イリノイ州は1977年に死刑判決を下したのは1人のみ) 。

判決を下された時、スメルカーはまだ21歳であったが、何の感情を見せず黙って聞いていた。

刑務所に収監されたスメルカーだったが、警察はスメルカーに関与して行方不明となっているマンスフィールドとマーティンもスメルカーによって殺害されたと確信していた。

しかし、本人が犯行を認めない事と、そもそも遺体が発見されず証拠がない為、訴追する事が出来なかった。


2006年、事件解決に関する新技術が開発されたとして、再び捜査が再開された。


同年3月、死体探知犬を使いキッカプー・クリーク公園とイマニュエル・ルーテル教会の敷地内を捜索した。

すると、教会の敷地内で探知犬が何かある事を示したが、捜索しても何も発見出来なかった。


2011年9月、スメルカーがこれまでの殺人について全てを告白した。

マンスフィールドもマーティンも証言により窃盗で起訴される事を阻止する為に殺害したと告白した。

また、フライ夫妻殺害だが、当初はフライのみを殺害するつもりであったが、殺害する所をロビンに見られた為、やむを得ず殺害したと述べた。

マーティンの遺体は、当時、建設中だった州間高速道路55号線の下に埋めたと供述し、マンスフィールドの遺体を埋めた場所についてはすでに30年以上も経っている事と、深夜に埋めた為、はっきりとした場所を指し示す事が出来なかった。

警察はスメルカーの供述をもとに遺体の捜索を始めるが、結局見つける事が出来なかった。


同年10月27日、スメルカーはメナード矯正施設で死去した。

享年56歳。

当局はスメルカーの死因について現在まで公表していない。



《殺人数》
4人 (他窃盗等)

《犯行期間》
1975年12月31日〜1976年10月9日



∽ 総評 ∽

これまで復讐や証拠隠滅、口封じ等の理由で殺人を犯した鬼畜を何人も紹介してきた。

その全てが自分勝手な理由でありとても許される事ではないが、その中でもこのスメルカーの犯行は群を抜く異常ぶりである。

自身が窃盗を犯しておきながら、証人が窃盗について証言する前に殺害するというこれ以上ない逆恨みである。

しかも、20歳そこそこで4人全員を口封じで殺すという残忍さで、こんな事で殺されてはたまったものではない。

スメルカーはかのチャールズ・マンソンを尊敬しており強い影響を受けた。

数多く存在するシリアルキラーの中でも、これほど異常者たちに悪い影響を与えた人物はいない。

後のコロンバイン高校銃乱射事件もそうだが、衝撃的な事件は起きてしまうものなので防ぎようもなく、こればかりはどうしようもない。

最後、スメルカーは全ての犯行について告白したが、それは亡くなる1ヶ月前であった。

自身がもうじき死ぬ事を覚悟してか最後に罪滅ぼしとでも考えて告白したのだろうか。

告白した事を良い事だが、そんな事で罪が償われるはずがなく、告白するならさっさと告白して欲しかったものである。