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ジェシー・サムナー (アメリカ)
【 1937 〜 2005 】



ジェシー・ドナルド・サムナーは、1937年1月9日、アメリカ・イリノイ州で生まれた。


1960年代初頭、サムナーは共犯者とされる40歳のハーシェル・ウィリアムズと、ヘイワースのファーマーズ・ステート銀行やブルーミントンの信用組合など、様々な施設で強盗を繰り返した。

サムナーとウィリアムズは不仲で、サムナーが犯行を繰り返したのはウィリアムズが妻と子供を脅迫していた為だと後に主張している。


1963年3月25日、ウィリアムズはダンヴィルにあるサムナーの理髪店を訪れる。

ウィリアムズはサムナーに強盗に協力するよう頼むが、サムナーは断った。

2人は口論となるが、ウィリアムズはサムナーに髪を切って欲しいと頼んだ。

サムナーは承諾しウィリアムズの髪を切るが、その最中にウィリアムズの喉を剃刀で切り裂いて殺害した。

サムナーは現場を清掃した後、遺体を55ガロン (約200リットル) の樽に詰めてコンクリートで覆い、ブルーミントンの埋立地に埋めた。

遺体は当初発見されなかったが、サムナーは強盗の罪で逮捕され、有罪となり懲役2年から5年の不定期刑が言い渡された。


1964年6月1日、ウィリアムズの遺体が入った樽が発見され、当局は最終的にサムナーを犯人に特定した。

この時、サムナーはスプリングフィールドの刑務所に収監されていたが、連行される途中、脱走を試みるがわずか数分後に捕まった。

サムナーはウィリアムズ殺害を否定したが、検察側は数々の証拠を提出した。

サムナーが事前に同じサイズの樽を購入しており、また、受刑者仲間にウィリアムズを殺害した事を繰り返し話していた事がわかった。

これに対しサムナーの弁護士は受刑者仲間の発言は矛盾があり信用できないと非難し、サムナーに不利な証言をする事と引き換えに刑務所での待遇を良いものにしたと主張した。

最終的にサムナーは殺人罪で有罪となり、懲役35年から75年の不定期刑が言い渡された。

サムナーは判決を不服として控訴した。


1969年、イリノイ州最高裁判所はサムナーの有罪判決を覆した。

サムナーは再審を望まなかった為、故意殺人の罪に減刑され、罪は懲役10年から15年に短縮された。


1972年1月、模範囚として過ごしていたサムナーは、刑期を6年半を務めた後、厳重な監視を条件に仮釈放された。

釈放後、サムナーは就職し、雇用主からは有能な労働者とみなされた。

サムナーはイリノイ州立大学に3年生として入学した。


同年2月から7月まで、サムナーは州の監視官ロバート・ドラッカーに必要な活動報告を定期的に行っていた。

その際はワイオミング州キャスパーに休暇で出かけた事やディケーターを訪れる予定であると話し、自身の問題についても率直に述べていた。

一見、更生したかのように見えたサムナーだが、仮釈放官は若干の懸念を抱いており、イリノイ州地区連邦仮釈放局長ギルバート・シェラーは、サムナーが更生したと判断するには2ヶ月では短すぎると指摘した。

しかし、サムナーが更生したかのように見えたの表面上であり、その裏でイリノイ州立大学に通う学生たちを食い物にし始める。


1972年4月19日、コリーヌ・マリー・バーチー (19歳♀) が行方不明となり、翌日の20日、遺体がマロア近郊で見つかった。

バーチーは浅く埋められており、死因は絞殺であった。


同年12月22日、ステーキ&シェイクで夜勤をしていたドライブインのウェイトレス、レイ・アン・シュナイダー (20歳♀) が、職場を出た直後に行方不明となる。


1973年5月28日、ドーン・マリー・ヒュー (18歳♀) がイリノイ大学キャンパス近くのバス停で姿を消した。


同年7月19日、サムナーは仮釈放違反を犯し逮捕された。

サムナーが妻を激しく殴り、入院した事を通報された為だった。

収監されたサムナーは、郡保安官ジョン・キングから失踪事件について尋問され、ポリグラフ検査を受けるよう求められた。

サムナーの矛盾した回答や言い逃れから、サムナーがヒュー失踪に関与していると認められ、その後、バーチーとシュナイダーに関しても関与していると判断された。

捜査官が引き続き調査を進めると、娘への性的虐待を行っている事も判明し、それらの罪でも起訴された。


同年8月4日、サムナーはシュナイダーとヒューの遺体を埋めた場所を案内すると申し出た。

1つはスタンフォードにある実家のガレージの下で、1つはダンバース西の溝の中でそれぞれ見つかった。

発見された当初は遺体の腐敗が進んでいた為、人物の特定が出来なかったが、歯科記録からシュナイダーとヒューと特定された。

2人とも鈍器による激しい外傷の跡があった。

サムナーは3人の女性殺害により起訴された。

裁判を待つ間、サムナーは独房の鉄格子をのこぎりで切って脱獄を試みるが、鉄格子を傷つけている途中で捕まった。

再度脱獄を警戒した当局は、サムナーをより警備の厳重なクック郡刑務所に一時的に移送された。

移送途中、サムナーは副保安官の拳銃を盗もうとするが阻止される。

数週間後、サムナーは裁判で全ての罪状について無罪を主張した。


同年9月19日、サムナーは他の2人の囚人、チャールズ・ネスターとマイケル・クラークと共に刑務所西側の壁に穴を掘って脱獄を試みるが、看守によって阻止された。

デイズウェル郡刑務所で裁判を待つ間、サムナーは再び脱獄を試みる。

サムナーは尖らせた金属片で独房のドアを切断し、遭遇した副保安官ロナルド・パーカーの喉を数回切りつけ負傷させた。

この怪我でパーカーは病院で治療を受ける事となり、結局サムナーは脱獄出来ず捕らえられた。


1974年9月、ようやくサムナーの裁判が始まり、サムナーはシュナイダーとヒュー殺害を認めた。

その結果、サムナーには懲役50年から100年2回分、100年から200年の不定期刑が言い渡された。


1981年2月10日、サムナーはメナード矯正センターで服役中、別の受刑者のマイケル・ドレイビング (後日掲載) に襲撃され、脚を刺された。

サムナーはこの怪我で17針縫い1週間入院した。

襲撃の詳しい経緯については明かされておらず、ドレイビングはサムナーを襲った事は認めたが、正当防衛だと主張し、サムナーがシャンク (針金) を所持していたと主張した。

しかし、ドレイビングの主張は信じてもらえず、殺人未遂と武装により更に懲役30年が追加されている。


1983年、サムナーは仮釈放審問に出席するが証言を拒否し、報道関係者の出席禁止を求めるが却下された。

被害者の親族たちはサムナーの危険性を訴え、仮釈放の申請を却下するよう強く求めた。 


1988年、サムナーは耳が遠くなり、補聴器を装着する為にジョリエットの診療所へ行く予定だった。

途中、サムナーは手製の銃を使って2人の警察官と事務所の従業員を人質に取り、南ケンドール郡へ逃走した。

逃走中に警察官1人と従業員を解放し、その後、通りすがりの人を捕らえて人質にするが、ヒンクリーに着くと解放した。

サムナーは1979年製のシボレートラックを盗み、シカモアに向かって運転し始めた。

唯一人質となっていた警察官がトラックから飛び降りて助かり (負傷した) 、サムナーはシカモアの地元の保安官によって逮捕された。

この逃走を知った遺族たちは、移送の際の警備の緩さを批判した。


2005年12月4日、サムナーは原因不明の病気により死亡した。

享年68歳。

サムナーの死が公表されると、被害者や遺族たちは一様に驚きを隠せなかった。

というのもサムナーは何年も前にすでに死亡していると考えられていたからだった。



《殺人数》
4人 (他被害者多数)

《犯行期間》
1963年3月25日〜1973年5月28日



∽ 総評 ∽

何度も脱獄を繰り返したサムナーだったが、遺族の言う通りこれは正直管理の甘さが問題だと思う。

1回だけならまだしも、こんな何度も繰り返している異常者に「いつもより気をつけないと」と慎重に厳重になるのが当たり前である。

脱走後に殺人を犯してないのでまだ良かったが、これで死人が何人も出たら完全に責任問題である。

ただ、この脱獄、逃走への執念は異常で、常にチャンスを伺っておりそこに全てを賭けていたのだろう。

こんなに脱獄を許すのも愚かだが、大した罪を追加せず刑務所で飼育し続ける。

さっさと死刑にして処刑していれば被害に遭う人もいなかったろうに、一体バカの1つ覚えみたいに何をやってるのかと思う。

被害者や遺族がサムナーが死亡したと伝えられると一様に驚きを隠せなかったとされるが、理由はすでに死んでいると思っていたからだった。

すでに処刑されたと発表されていたのか (イリノイ州は2011年に死刑が廃止されているのでサムナーが生存していた時はまだ死刑が存置されていた) 、それとも病死したと発表されていたのか、詳細がないのでよくわからない。

ただ、仮に処刑や病死したと公表していたとしたら、被害者や遺族を騙していた事になり、とても許される事ではない。