
トーマス・クリーチ (アメリカ)
【 1950 〜 】
トーマス・ユージーン・クリーチは、1950年9月9日、アメリカ・オハイオ州ハミルトンで生まれた。
両親は日頃から口論が絶えず仲が悪かった。
最終的に両親は離婚する事となり、クリーチは父親と暮らす事となった。
数年後、父親はクリーチの目の前で原因不明の死を遂げるのだが、クリーチは父親の世話をしていた看護師を襲った (後に本人が供述) 。
その後のクリーチについては、伝聞やクリーチ自身の裏付けのない主張により不明な点が多かった。
確かな確認は取れていないが、クリーチは故郷を逃げ出し、放浪者としてアメリカ国内を旅したとされる。
1969年12月11日、クリーチは強盗の罪で2年から50年の不定期刑を受けた。
1971年、クリーチは仮釈放される。
1973年、クリーチはアイダホ州ボイシで、17歳のトマシーン・ローレン・ホワイトと結婚した。
ホワイトは後にクリーチが犯す殺人事件の少なくとも1件に加担したとされ、最終的にオレゴン州セーラムの精神病院に移送されるがそこで自殺している。
後にクリーチはホワイトが自殺した原因について、複数の男に集団で強姦され、窓から投げ出された事による肉体的、精神的ダメージを負った為だと主張している。
1973年8月22日、クリーチはポートランドでタバコを13箱盗んだとして仮釈放違反で逮捕された。
精神鑑定の為、精神病院に入院したクリーチだったが、容疑は取り下げられた。
容疑は取り下げられたクリーチだったが、通常の病棟に短期間入院となった。
入院中は模範患者と評され、精神疾患を患っていないと判断されわずか1週間で解放された。
その後、クリーチはポートランドに戻り、セント・マークス聖公会教会の墓守として仕事に就いた。
しかし、居住区で男性の遺体が発見された為、クリーチは仕事を辞めた。
間もなく、17歳の新しい恋人キャロル・スポールディングとアイダホ州へ引っ越す。
1974年11月6日、クリーチとスポールディングはアイダホ州ルイストンから南のドネリーへ行く為にヒッチハイクした。
すると、エドワード・トーマス・アーノルド (34歳♂) とジョン・ウェイン・ブラッドフォード (30歳♂) という2人の塗装工が運転する1956年型ビュイック・センチュリーの車に拾われた。
途中、クリーチはライフルを取り出すと、アーノルドとブラッドフォードの頭を撃ち射殺する。
その後、カスケード北にあるドネリー近郊のバレー郡のハサウェイ55沿いの墳墓の穴に2人の遺体を隠した。
クリーチは26歳のジーン・アルビン・ヒルビーという男性と親しくなり、ヒルビーはクリーチの命令でライフルを埋める事に同意した。
2日後の11月8日、クリーチはオレゴン州で更に2件の殺人を犯した (詳細不明。クリーチの虚偽の可能性もあり) 。
また、コロラド州の上院議員ゲイリー・ハートに殺害予告を送った (とされる) 。
これらの罪でクリーチとスポールディングは指名手配され、エルモア郡グレンズフェリーで逮捕された。
2人とも殺人罪で起訴されるが、クリーチは上院議員への殺害予告の容疑は晴らされた (噂に過ぎないと判断されたため) 。
クリーチはカスケードにあるバレー郡刑務所に短期間拘留され、その後、90マイル (約145km) 南のボイシにあるより警備の厳しいエイダ郡刑務所に移送された。
1週間後、クリーチは割れた鏡の破片で手首を切って自殺を図ったが軽傷で済み、看守に拘束され別の独房に移された。
クリーチに指示されライフルを埋めたヒルビーも殺人に関与したとして起訴されたが、後に保護観察処分となって釈放されている。
1975年1月、スポールディングは当時18歳であったが成人として裁かれ、第一級殺人2件の罪で有罪となった。
同年6月16日、クリーチは同房の囚人ウィリアム・O・フィッシャーと口論となり襲って負傷させた。
フィッシャーは顔に傷を負い、治療の為に病院に搬送されるが、この事件は報道禁止命令が出された (その為事件の詳細については不明) 。
1ヶ月後、クリーチはアイダホ・ステイツマン紙が、有罪判決を受けたが疑われている他の犯罪に関する情報を掲載した事で公正な裁判を受ける権利を侵害され、世間に偏見を抱かせたとして同紙を訴えようとした。
同年8月、裁判地をカスケードからショショーニ郡ウォレスに移されるが、直後にクリーチは独房の2段ベッドから落下して頭を打って負傷した。
病院に搬送され頭部を縫合する事になり、裁判は延期された。
同年10月、当初は殺人現場にいなかったと主張していたクリーチが、アーノルドとブラッドフォードがナイフを突きつけてスポールディングを強姦しようと脅してきた為、2人を射殺したと主張を変更した。
また、クリーチは全米12州でこれまで42件殺人を犯したと供述し、全米に衝撃を与えた。
クリーチは最初の殺人は17歳の時にオハイオ州ニューマイアミで友人を溺死させた事だと主張した。
家出したクリーチはサンフランシスコでゲイの男性を殺害した後、「Hells Angels (麻薬密売や暴力的な抗争を繰り広げる犯罪組織) 」に所属し、オハイオ州で契約により5人を殺害した。
その後、組織の人身御供を伴う悪魔の儀式で人を殺し始めたと主張した。
クリーチはワシントン州ベリアン、カリフォルニア州サンディエゴ、サンフランシスコ、マリブ、ユタ州ビーバー、オグデン、ソルトレイクシティ、オクラホマ州タルサ、ワイオミング州ジャクソンホール、モンタナ州ミズーラ、カンザス州ウィチタ、コロラド州で起きた実際の殺人について知っていると述べた。
クリーチはロサンゼルス郡にある2つの埋葬地で100人以上の犠牲者を発見出来ると述べ、当局に場所を指示した。
しかし、実際に当局が指示された場所を調べても発見できたのは牛の骨1本だけだった。
クリーチの証言自体は衝撃的なものであったが、警察当局はその証言のほとんどが虚言だと考えていた。
ある警察官はクリーチが暗唱した悪魔の儀式は、プレイボーイ誌から一字一句コピーしたものであったと語っている。
それでもクリーチが述べた42件の殺人の内、9件に関してはクリーチと結び付ける事が出来た。
ただ、その9件は全て悪魔の儀式の生贄とされるものではなかった。
9件の殺人 (判明している中で) は、ネバダ州ラスベガスのゴードン・リー・スタントン (♂) とチャールズ・トーマス・ミラー (♂) 、オレゴン州ポートランドの教会の住居で遺体で発見されたウィリアム・ジョセフ・ディーン (22歳♂) 、セーラムの店員サンドラ・ジェーン・ラムサムーグ (19歳♀) 、ワイオミング州バッグス近郊のリオグリー・スチュワート・マッケンジー (22歳♂) 、カリフォルニア州サクラメントのビビアン・グラント・ロビンソン (50歳♀) であった。
また、1973年10月23日にアリゾナ州ツーソンのダウンタウンにあるホテルで刺殺されたポール・C・シュレイダー (70歳♂) もクリーチによるものとされた。
実はシュレイダーが殺害された当時、クリーチは容疑者として指名手配されていた。
クリーチは逮捕され殺人罪で起訴されたが数時間の審議の後、無罪となって釈放されていた。
結局、クリーチはディーンやロビンソン殺害で起訴され、確実な計5件の殺人罪で有罪判決となった。
クリーチは多くの殺人を認めていたが、ブラッドフォードの殺人については無実を主張し続けた。
1976年3月25日、クリーチは2件の殺人罪で絞首刑による死刑が言い渡された。
当初、クリーチの死刑執行は5月21日に予定されていたが、オレゴン州とカリフォルニア州の殺人事件について控訴する事となった為、執行は延期された (後にこれらの殺人で有罪となるが判決内容については不明) 。
クリーチの弁護士は死刑判決が当時の州の法律では違法であると主張し、終身刑への減刑を求めた。
この主張は成功し、クリーチは終身刑へ減刑となった。
クリーチはアイダホ州矯正施設に収容され、検察官の抗議にもかかわらず、刑務所内の用務員として働いた。
1981年5月13日、クリーチは以前にも口論となっていたデビッド・デール・ジェンセン (23歳♂) を殺害する。
ジェンセンは自動車泥棒として刑務所に収監されていたのだが、クリーチは電池を詰めた靴下を凶器にして殴り殺した。
2人の検察官はクリーチが他の受刑者にとって脅威で危険な存在だと刑務所所長に警告していた (この殺人自体には様々な説がある) 。
クリーチは2度目の死刑判決を受けて以来、死刑囚としてアイダホ州内の最高警備の刑務所に収監された (クリーチは同刑務所に最長の服役期間を過ごした囚人でもある) 。
2020年、クリーチは死刑囚ジェラルド・ピッツート (後日掲載) と共に死刑執行手順を巡る州の秘密主義によって自身の権利を侵害されたとして訴訟を起こした。
2023年10月12日、ジェイソン・スコット判事がクリーチの死刑執行令状に署名し、執行日を同年11月8日に定めた。
同年10月18日、アイダホ州恩赦・仮釈放委員会は、クリーチの減刑審問要請を認め、死刑執行日を延期すると発表した。
これによりクリーチはアイダホ州の司法史上、恩赦審問を受ける3人目の死刑囚となった。
2024年1月29日、アイダホ州恩赦・仮釈放委員会によるクリーチに恩赦を与えるかどうかの審問が3対3で分かれ、意見が一致しなかった事で死刑判決が維持される事となった。
クリーチに恩赦を与えるかどうかの最終決定権を持つブラッド・リトル知事は、恩赦を与えないことを選択した。
クリーチの恩赦請願が却下される数日前、クリーチが1974年10月にカリフォルニア州サンバーナーディーノで発生したダニエル・ウォーカー (♂) 未解決殺人事件の真犯人である事が判明した。
翌日の30日、スコット判事は再び死刑執行令状に署名し、クリーチの死刑執行日を同年2月28日に設定した。
死刑執行日が決まった後、クリーチは2つの控訴を行った。
同年2月9日、アイダホ州最高裁判所はクリーチの請願を棄却し、執行日は維持された。
同年2月23日、カリフォルニア州の控訴裁判所がクリーチの上訴を棄却した。
クリーチの弁護団は死刑判決は陪審ではなく裁判官によって違憲に下されたものとして判決の取り消しを求めた。
しかし、裁判官は弁護団がこの問題をもっと早く提起せず、主張を裏付ける確かな証拠も提示しなかった事を厳しく叱責し、申し立ては死刑執行を遅らせる為の遅延行為だと非難した。
ただ、クリーチの支持者たちは、クリーチが更生し、犯した罪の重大さにもかかわらずもはや社会の脅威ではないと終身刑への減刑を求め続けた。
同年2月28日、クリーチの死刑が執行される予定であったが、午前10時の死刑執行時刻を1時間過ぎた時点で医療チームが注射薬の静脈ラインを確立出来なかった事が発表され、執行は中止となりクリーチは独房に戻された。
同年10月16日、クリーチに対して新たな死刑執行令状が発行され、執行日が同年11月13日に再設定された。
同年11月6日、連邦判事はクリーチに対しての死刑執行停止を認めた。
《殺人数》
11人以上 (本人は42人と主張)
《犯行期間》
1967年?〜1974年11月8日?
∽ 総評 ∽
少なくとも11人、42人を手にかけた可能性があるクリーチ。
逮捕後に他の殺人を主張する犯罪者は多く、それは控訴や上訴により裁判を引き延ばしたりクリーチのように死刑を延期させる為につく嘘の事が多い。
クリーチは元々1976年に死刑が執行される予定であったが、クリーチや弁護団による控訴や上訴、支持者による恩赦や減刑請願等、様々な要因により結局現在まで執行に至っていない。
何年にも渡って一体何をやってるのだろうか。
しかも、やっと執行される事となったと思いきや、薬を注射する静脈を確保出来ず執行停止になっている。
自殺が未遂に終わったり注射が上手くいかなかったりとなんという悪運の強さであろう。
人権を尊重するという事は良い事であるが、アメリカのように犯罪者にも同様の権利を与えるというのはどうかと思う。
コメント
コメント一覧 (6)
私も理解出来ませんよ当然。
恩赦なんて与える必要もう意味もないですよ。
判明している死刑相当の罪状だけで死刑判決を出してから処刑すれば後腐れはなかっただろうに。
こいつのほかにも殺したは処刑を延期してもらうためかなと思いますね。
どんだけ往生際が悪くおこがましいことか。
必要ない無意味な時間と労力といえます。
もっと他の大事な事に時間を使えばいいと思いますね。
それはさておきキチモンの権利を訴え死刑の廃止や恩赦を求めるキチモン愛好家の皆さんは隔離施設でキチモンの面倒を見られてはどうかと考える次第であります。
隣人がキチモンだなんて私は耐えられませんので、愛好家の皆さんが責任を以って飼育して頂きたいと思うのです。
そうですね。
ただ本当にヤバいシリアルキラーは自分の命にも淡白なので生に固執しない輩もいますね。