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テリー・チャイルズ (アメリカ)
【 1955 〜 2023 】



テリー・チャイルズは、1955年9月22日、アメリカ・カリフォルニア州サンタクララ郡で生まれ、アプトスで育った。

チャイルズは6人兄弟であった。

10代の時、チャイルズは様々な薬物やアルコールを使用するようになり、1970年代には強盗を働き逮捕された。

チャイルズは学校を中退し、その後、数年間、様々な犯罪を犯して何度も刑務所に収監された。

だが、何度も逮捕されたにもかかわらず、刑罰は軽い事が多かった。

しかも、チャイルズだけではなく、兄弟の何人かも同様に軽犯罪者であった (兄弟の1人は刑務所で受刑者にバーベルで殴られ殺されている) 。

チャイルズは精神疾患の兆候を示す無職の麻薬中毒者として地元民に知られる存在であった。


1985年8月22日、チャイルズと恋人が銃器の不法所持により逮捕される。

チャイルズらの保釈金は25万ドル (約6000万円) に設定された。

裁判を待っている間、チャイルズらは12日前の10日にスコッツバレーの小さな町で遺体で発見されたロイス・シガラ (17歳♀) 殺人事件の第一容疑者となった。

検死の結果、シガラは発見されたおよそ5日前 (8月5日) に殺害された事がわかり、至近距離から9mmのルガーで15発撃たれていた事が判明した。

捜査中、シガラがチャイルズが運転するフォード・マスタングに似た車に乗り込む姿を目撃したという人物が現れる。

その後、チャイルズが木に向かって数発の弾丸を発射した場所へ警察を導き、そこで発見された数個の薬局を回収し、弾道検査によってチャイルズが使用したルガーと判明した。

しかし、肝心のルガーはチャイルズのアパートを捜索しても見つからなかった。


同年9月10日、状況証拠しかなかったが、チャイルズに対する起訴が行われた。

取り調べの中、チャイルズから家族を殺すと脅されていた恋人は最初は発言を拒んでいたが、最終的に証言をする事に同意した。

恋人が言うには、シガラは「ジーニーン」というニックネームで呼ばれており、チャイルズを通じて紹介された。

シガラとはチャイルズと住んでいたアパートに数ヶ月間一緒に暮らしていたが、殺害する数日前にシガラが1985年7月にチャイルズが友人ジョンとロンと共に働いた強盗の件を密告しようと考えている密告者ではないかと疑った。

そして、チャイルズは恋人にシガラを殺すつもりだと話したと述べた。

チャイルズはシガラを説得して車に乗せ、恋人と3人でスコッツバレー郊外まで連れて行くとシガラを射殺した。

チャイルズは残されたタバコの吸い殻や犯人に繋がるような証拠を隠蔽するよう恋人に命じ、車で逃走した。


1986年4月初旬、司法取引の条件に基づき、チャイルズの恋人に対する告訴の一部は取り下げられ、最終的に矯正施設での5年間の刑が言い渡された。


1987年1月15日、チャイルズの裁判が始まり、サンタクルーズ郡検察局は、チャイルズが被害者を拷問する事に喜びを感じ、極めて残酷な方法で殺人を犯したサディストだと主張した。

検察側が招聘した法医学専門家は、シガラは銃弾15発中、9発が命中していたが、そのほとんどが腕や太もも、腹部であり、どれも即死となる場所でないと述べた。

そして、シガラは撃たれた時はまだ意識があり、這って逃げようとしたが、チャイルズが最後に致命傷となる1発を頭部に撃ったと主張した。

検察側の主な証人はチャイルズの恋人で、恋人は法廷で事件の詳細を語った。

強盗の共犯者であったジョンは法廷での証言を拒否したが、ジョンの父親は息子がチャイルズに銃を売るのを目撃したと証言した。

ジョンの父親は銃の薬莢を提供し、弾道検査によりシガラ殺害に使用した銃である事が判明した。

チャイルズは自分は精神病でると主張し無実を主張した。

弁護士はチャイルズを診察した神経科医が、長期に渡る薬物乱用により妄想性統合失調症を患っていたと述べた。


同年2月4日、チャイルズは殺人罪で有罪となり、41年は仮釈放の可能性がない終身刑が言い渡された。

判決に激怒したチャイルズは、友人に密かに銃を持ってこさせ、法廷で銃撃を行う計画を立てた (未遂に終わっている) 。

有罪判決を受けたチャイルズは、コーコラン州立刑務所に移送された。


1996年、チャイルズは別の囚人を殺害しようとした為、ペリカンベイ州立刑務所に移送される事が決定した。

この刑務所は特に凶悪な犯罪者を収容する大型刑務所で、チャイルズが収容されれば独房に隔離される事が決まっていた。


同年10月、自身がペリカンベイ州立刑務所に収容される事を知ったチャイルズは、サンタクルーズ郡検察局に連絡し、移送を中止する代わりに1979年以来犯した11件の殺人を自白すると提案した。

チャイルズの告白によると、サンタクルーズ郡で4件、サンタクララ郡で2件、カリフォルニア州トレイシーで2件、ワシントン州シアトルで2件、ネバダ州スパークスで1件の殺人を犯した。

スパークスの事件は、1979年7月10日にリノに買い物に行く途中で誘拐され、強姦され刺殺されたルーラン・マクギル (当時32歳♀) である事がわかった。

チャイルズは捜査官のみが知る詳細を話し、非常に正確に死体の位置を指した。

この情報によりチャイルズは殺人罪で起訴された。

チャイルズはスパークス郡刑務所に引き渡され、その後、裁判で有罪判決を受け終身刑が下された。


2007年10月12日、チャイルズはリンダ・アン・ジョゾビッチ (当時19歳) 殺害を自白した。

リンダは1979年11月7日夕方、サンタクララ郡の百貨店でレジ係として働いていており、駐車場で行方不明となった。

リンダは16年後の1995年、サンタクルーズ山脈でハイカーが下顎の骨と肋骨数本を発見するまで行方不明であった。

リンダの残りの遺体は2004年に全て発見され、取り調べでチャイルズは、リンダがその晩に母親と口論となり家を出たと話した。

駐車場でリンダと会ったチャイルズは、無理やり車に乗せるとレキシントンの貯水池まで連れ、そこでリンダを殴り、拷問し、首を絞めて刺殺した。

チャイルズがリンダ殺害を告白した理由は、長い間リンダの幽霊に悩まされたからだと述べた。

チャイルズはリンダ殺害を後悔していると述べ、いずれ家族に連絡して謝り許しを乞いたいと話した。


2008年、チャイルズはリンダ殺害で有罪となり仮釈放の可能性がない終身刑が言い渡された。


2016年、チャイルズはサンタクララ郡検察局に再度連絡し、更に2件の殺人を犯した事を認めた。

その2件とは、1984年10月11日に殺害されたジョーン・レスリー・マック (当時28歳♀) と1985年2月3日に殺害されたクリストファー・ホール () であり、2件ともアプトスで発生した。

チャイルズはマックを口説いて車に乗せると、シースケープ・ビーチに連れて行き、そこで縛り撲殺したと話した。

また、ホールは長年の仲間で、麻薬の借金を返済出来なかったため殺害したと主張した。

また、1974年6月11日に父親の婚約者ペニー・リッケンベーカー (当時30歳) を殺害した事も認めた。

当時、リッケンベーカーは自宅で頭を撃たれた状態で見つかっていた。

その際、警察の尋問を受けるが、チャイルズを含め父親と兄弟全員がリッケンベーカーが撃たれた時、寝ていて気づかなかったと主張した。

結局、証拠不十分であった為、自殺として処理されていた。


2017年、チャイルズはマックとホール殺害でも有罪となり、仮釈放の可能性がない2つの終身刑が言い渡された。


2023年2月11日、チャイルズは刑務所で死去した。

享年67歳。



《殺人数》
5人 (12人の可能性大)

《犯行期間》
1979年11月7日〜1985年8月5日



∽ 総評 ∽

チャイルズは5人殺害で有罪となり、刑務所で病死したが、本人はこれまで12人の殺害を認めていた。

逮捕された時はシガラ殺害のみの罪であったが、その後に11人の殺害を告白し、その内4人で有罪となった。

チャイルズは凶悪犯罪者が集められる刑務所に行きたくなかった事を理由にこれまでの犯行を自白したのだが、通常こういった理由で告白する場合、嘘な事が多い。

行方不明者が毎年50万人ほどいるアメリカなら、確かに適当に嘘をついてもそれが通ってしまう可能性がある。

その為、ほとんどが虚言な場合が多いが、チャイルズは実際に4人の殺害を認められ有罪となった。

そうなると、チャイルズの12人殺害というのは信憑性がかなり高く、おそらく実際に殺害していると思われる。

チャイルズは殺害した被害者の幽霊に悩まされ続け、告白に至ったと述べたが、本当にそうなら情けない限りである。

チャイルズは何度も終身刑が追加されたが、この無意味な判決は何とかならないものか。

人生一度きりなので終身刑は1回で十分であり、2回の時点で死刑になぜしないのか。

何度も終身刑を言い渡していて何とも思わないのだろうか。

私ならおかしくて笑わずにはいられない。