
デイヴィッド・ミッシュ (アメリカ)
【 1961 〜 】
デイヴィッド・エメリー・ミッシュは、1961年2月19日、アメリカ・イリノイ州シカゴで生まれた。
1960年代半ば、家族はカリフォルニア州ヘイワードに移り住み、ミッシュはそこで十代の時期を過ごした。
父親ロバートはアルコール依存症で、酒に酔っては妻やミッシュに暴力を振るった (後のインタビューでミッシュは母親が父親の暴力を止めなかった事を憎んでいたと語っている) 。
1970年代半ば、ミッシュは勉強を放棄し、両親と頻繁に衝突していた為、家を出て路上で過ごすようになった。
そして、ミッシュは16歳から犯罪行為を行うようになっていった。
1977年、ミッシュは近所の家に侵入し、清掃員の女性にナイフを突きつけ強姦した。
強姦後、首を絞めるが女性がミッシュの腹部を蹴り、ミッシュに助命を乞うて説得した為、ミッシュは女性を放置して去った。
直後にミッシュは逮捕されるが、まだ16歳であった為、軽い懲役刑を言い渡され1979年に仮釈放となった。
釈放から数日後、ミッシュは裸にジャケットだけを羽織り隣人の家に侵入すると、女性とその子供2人をナイフで殺すと脅した。
しかし、結局どちらにも危害を加えず家を出た。
逮捕されたミッシュは精神医学的検査を受けるよう命じられ、その結果、精神異常と判断された。
治療の為、ミッシュはアタスカデロ州立病院に搬送され、その後、数ヶ月間治療を受けた。
1981年9月、ミッシュの精神状態は改善し、社会にとって危険ではないとみなされた為、釈放された。
釈放されたミッシュはヘイワードの実家に戻った。
そこで、ミッシュは建設会社の看板塗装の職人として働き始めた。
1982年6月、ミッシュは仕事でオークランドヒルズのロードウェイテラスの電柱に不動産の看板を立てていた時、交換留学生プログラムでアメリカに来ていたスイス人留学生ベティナ・ベントハウス (18歳♀) を目撃する。
ミッシュはベントハウスを後ろから掴むと、「殺す」と脅し、揉み合いの中、ベントハウスの唇を切り、その後、殴って意識を失わせた。
ミッシュはベントハウスを近くの私道まで引きずり込もうとするが、住民たちが気付きミッシュを取り囲んだ。
ミッシュは住民たちに彼女は単に転んだだけだと説明し、住民たちが見ていない隙にピックアップトラックに乗って逃走した。
しかし、住民たちが逃走したトラックに刻まれた自動車販売店の名前を覚えており警察に通報した。
警察はすぐに車の持ち主をミッシュと特定し、まもなくミッシュは逮捕された。
ミッシュは暴行と強姦未遂の罪で起訴され、有罪となり懲役4年が言い渡された。
刑期を満了したミッシュは釈放されると、ヘイワードに戻りそこでガールフレンドと同居を始めた。
ミッシュは肉体労働と時折窃盗を行い生活費を稼いだ。
1987年11月、ガールフレンドがミッシュとの子供を出産するが、子供は1988年2月に生後3ヶ月で死亡した。
息子の死後間もなくミッシュは窃盗容疑で逮捕され、アラメダ郡刑務所で数ヶ月間収容された。
1988年11月14日、ミッシュは仮釈放されるとすぐにヘイワードに戻った。
同年11月22日、釈放からわずか8日後、ミッシュは定期検査で警察に車を調べられると、車内からワイヤーカッター、斧、大きなペンナイフ、懐中電灯が発見された。
ミッシュは逮捕され、最終的に窃盗罪で起訴された。
1989年4月、有罪判決を受けたミッシュは懲役1年5ヶ月が言い渡され、サン・クエンティン州立刑務所に収監された。
同年11月17日、7ヶ月間の服役後、ミッシュは仮釈放された。
同年12月8日、ミッシュはマーガレット・ナルシサ・ボール (36歳♀) 殺害容疑で逮捕された。
ボールは前日の7日にオークランドの自宅で殴打され刺殺されていた。
ボールの遺体はボーイフレンドの11歳の娘によってリビングルームで発見され、胸と腹部を刺されていた。
また、総額で85ドル (約11000円) 盗まれていた事もわかった。
ミッシュは逮捕された際、盗んだボールの車を運転していた。
拘留されたミッシュは犯行を否定したが、父親は後にミッシュが帰宅した時にメタンフェタミンによる強盗の際にボールを殺害したと自白したと証言した。
最終的にミッシュは自白するのだが、性行為は合意の上で行われたと主張した。
1990年、ミッシュはボール殺害で有罪判決となり、仮釈放の可能性がある終身刑が言い渡された。
その後、ミッシュは数年に渡って様々な刑務所を転々とし、その間に申請した3件の仮釈放申請は却下された。
2003年、DNA検査の為にミッシュの血液サンプルが採取されると、1986年2月2日に遺体が発見されたジェニファー・アン・デューイ (当時20歳♀) の爪の下から発見されたDNAと一致する。
デューイは遺体が発見された前日の1986年2月1日、友人のミシェル・マリー・ザビエル (18歳♀) と共にフリーモントで友人の誕生日パーティーに出席する予定であった。
デューイとザビエルはセブンイレブンで一緒にいる所を最後に目撃されていた。
そして、翌日の2日に通りがかったバイク運転手がミルクリーク・ロード脇で2人の遺体を発見した。
デューイは数回刺されており、ザビエルは射殺されていた (ザビエルは射殺であった為、体内からミッシュのDNAが発見されなかった) 。
ミッシュはザビエルの車を盗んだが、約3マイル (約5km) 離れたショッピングセンターの駐車場に放置した。
捜査官はミッシュに事情聴取を行い、デューイとザビエル殺害について尋問するが、関係ないと主張した。
ただ、ミッシュは2人については知っていると話し、事件当日、ガソリンスタンドで車にガソリンを入れていた所、女性2人の内の1人が、2人の男に引きずり去られていくのを目撃する。
そこでミッシュは助けに入り誘拐犯と戦ったが逃げられたと話した。
また、デューイの爪の下から見つかった皮膚のDNAに関しては、揉み合いの際にデューイが誤ってミッシュを引っ掻いた為だと述べた。
ミッシュは自身の事を地域で働く売春婦や全ての少女を見守る保護者であると主張した。
取り調べ終了後、録音が途中で切れている事に気付き、数週間後に再度ミッシュと面会する予定を立てようとするが、ミッシュはこれまでの話を全て撤回し、何も認めようとしなかった。
その為、ミッシュは女性2人殺害では不起訴となった。
2017年9月8日、警察はミッシュを再び事情聴取すると、同年9月21日、ミッシュは独房で首吊り自殺を図った。
一命を取り留めたミッシュは、翌年、デューイとザビエル殺害で起訴され、フォルサム州立刑務所からアラメダ郡刑務所へ移送された。
2020年12月下旬、ミッシュは1988年11月19日に、ヘイワードのレインボー・マーケットで誘拐されたミカエラ・ジョイ・ガレヒト (9歳♀) の誘拐と殺人で起訴された。
当時、ガレヒトと一緒にいた友人が、2人で店から出た時にゲレヒトのスクーターがなくなっている事に気づいた。
2人でスクーターを探すと、店の駐車場の隅っこで発見し、ガレヒトがスクーターに近づくと、車で接近してきた30代前半の長髪の白人が乗る車に拉致されたと証言していた。
ガレヒト誘拐事件は、当時、アメリカ全土に衝撃を与え、国民が早急に犯人逮捕を求めた。
その後、警察は数十年に渡って繰り返し捜査を行い、容疑者には児童を殺害したカーティース・ディーン・アンダーソンや『The Speed Freak Killers』として悪名高いローレン・ヘルツォーク&ウェズリー・シャーマンタイン等も容疑者に含まれた。
事件から30年以上も経過してミッシュが容疑者となった理由は、ガレヒトのスクーターに付着した掌紋と指紋であった。
事件当時はわからなかったものの、月日が経ち、技術の進歩のおかげでそれらを発見する事が出来たのだった。
ただ、弁護士はガレヒトの遺体が発見されていない為、合理的に殺人を証明する事は出来ないと主張した。
また、デューイとザビエル殺害に関しても、接触を証明しただけであり、必ずしもミッシュが殺害した事を証明していないと述べた。
弁護士はミッシュが主張する別の人物による殺害を尊重し、当時デューイと交際していたボーイフレンドの兄弟が非常に疑わしいと主張した。
2024年3月4日、デューイとザビエル殺害に対する裁判が始まり、アラメダ郡検察局はガレヒトの裁判も統合して行うよう主張したが、ミッシュの弁護士が反対した。

ミカエラ・ガレヒト
《殺人数》
最低4人 (他犯罪多数)
《犯行期間》
1986年2月1日〜1989年12月7日
∽ 総評 ∽
ミッシュは逮捕後、過去の数々の犯罪が明るみになったが、現在も裁判は進行中であり、まだ、ミッシュによる犯行だとは断定されていない。
ただ、数々の証拠が示す通り、ミッシュによる犯行でまず間違いない。
そもそも、弁護士の「ガレヒトの遺体が発見されていない」とか「デューイとザビエルと接触したという証明に過ぎない」と述べて無罪を主張とかいくらなんでも無理がないだろうか。
ガレヒトのスクーターに指紋があった、デューイとザビエルと一緒にいた、その3人と関わっていたのが犯罪まみれの異常者、これらの理由でミッシュが殺人を犯したという事実に何の疑問の余地があろうか。
ミッシュのようなシリアルキラーは前科が一切なく最初の犯行が殺人という事はほとんどない。
連続殺人を犯す前に犯罪や犯歴によって必ずと言っていいほど「私は異常です」というアピールをしている。
それを軽微な懲役であったりそもそも見逃したりしてしまう事で後に重大な犯罪を犯すのである。
1度だけの軽犯罪とかならまだしも、このレベルの犯罪をハイペースで行っているのだからさっさと処分する以外に選択肢はない。
コメント
コメント一覧 (9)
時折窃盗なんてあるあたり、もっと多いか。
すべての女性を守る保護者とか笑わせてくれる。
そういうのは個人ではなく団体で活動するもんだけどね。
女性ばかり狙っているから、むしろこいつから女性を守る保護者が必要なくらい。
アメリカにはこんな輩がうじゃうじゃいる上に銃社会だから、自分は怖くて住めない。
詳細が明らかになっていない犯罪もおそらく多数あるでしょうね。
私もこのブログを作っていて同じくとても住めないと思います。
最低でもそうして欲しいですよね。
被害者たちの為に。
デイヴィッド・ミッシュ、生理的にも嫌悪感が凄まじい屑ですね。
精神的に大分破綻してるだけでなく、かなり酷い腐れ外道振りで閲覧してるだけでもPCを強制終了したくなる有様。胸糞どころじゃありません。
容赦なくその場で射殺してくれても良かった位だと思えます。
話が飛びますが、先日の4日にエルサルバドル政府が「(条件付で)米国民を含むあらゆる国籍の犯罪者を受け入れる」との驚くべき提案をトランプ政権に提案していたようです。
何でも、エルサルバドル現大統領のブケレ氏が 「国外追放された人々を『有償』で引き取り、犯罪組織の構成員を収容していることで知られる巨大刑務所に入れる用意がある」とコメントしていたとのこと。
(詳細は以下の記事から閲覧出来るようになってます)
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2025-02-04/SR56GBT0AFB400
韓国の殺人犯ばかりになりますが、キム・ムギョン、ムン・スンド、キム・ヘソンとホン・スンヨン、を取り上げて下さい。
どれも胸糞レベルなものなので拡散すべき価値があるのではと思っています。
(長くなるので分割させて戴きます)
キム・ムギョンは1990年、当時9歳だった少年を身代金目的で誘拐・殺害した犯罪者で、殺害した少年の自宅へ11回も脅迫電話をして2千万ウォンを要求したとされています。当然ながら逮捕後は起訴20余日後に死刑を宣告され、1991年に現地の最高裁判所で死刑確定となり3年後の1994年に他の犯罪者と共に刑を受けてこの世を去っています。
ムン・スンド(漢字では文勝道)は1991年に発生した少年誘拐殺害事件の犯人であり、当時の韓国中に大きな衝撃を与えた犯罪者として語り継がれています。
理由としてはあの幼児連続拉致・殺害事件の犯人である宮崎哲と同様に、前科もなく裕福な環境で育ち、見た目には健全で反反した青年だったという点だそうです。
この男も当然ながら、逮捕・起訴された後に誘拐殺人罪が認められ、1991年12月に死刑宣告となり、1994年10月で死刑執行された為にもうこの世に存在してません。
数々の余罪(主に殺人)が発覚しており、2001年12月に死刑が確定していましたが、惜しくも韓国自体が死刑廃止国となってしまっている上、最後に執行された死刑は1997年である為に事実上の死刑廃止状態で、未だムショの中で生き長らえている有様です。
父親がアル中でヘソンに対して性的虐待を犯していた等、凄惨な少年期を過ごしていた事からの影響で異常者へと変貌したと言われてますが、ヘソンが犯した事が惨過ぎる点に変わりはなく、糾弾に値する愚者であることに間違いはありません。
ホン・スンヨンは1990年に発生した身代金誘拐殺人事件の犯人かつ詐欺師であり、自身を偽り続けた「嘘吐き女」としても有名となっている犯罪者です。
6歳の少女の命を自分の歪んだ願望や虚偽の実現化のために奪い去った外道であり、自分さえ良ければ何だっていいと豪語するかのような発言もしていた屑女です。
スンヨンは自分が常に優位な立場でないと絶対に気が済まない自己至上主義者たる存在の典型例と呼べる人物であると同時に、精神病の一種で『リプリー症候群』という特殊な病に掛かっていたとされています。
(リプリー症候群はざっくり述べると、自分の吐いた嘘を信じ込む点や現実とフィクションの区別が全く付かない点が特徴となっているもので、症状自体が広く認知されているにも拘らず正式な病気と認可されていない状態となっています。名の由来は『リプリー』という小説に登場する主人公のトム・リプリーで、その主人公が他者の身分を乗っ取り、その乗っ取り先の他者の人生を送るといった生き様が元になっているそうです)
スンヨンは当然ながら死刑判決を受けており、翌年の1991年に死刑が決行されています。
宮崎哲 → 宮崎勤
反反 → 応応
スレ汚し大変失礼しました。またROMに戻ります。
この時点でどうしようもない。
連続殺人鬼とはまだ言い切れないけど、16歳で腐れ外道は確定のイカレ外道。
死刑判決が出て処刑されてほしいな。
もしくは刑務所で囚人に殺されるか。
再犯のイカレ外道や腐れ外道は問答無用で処刑すべきと思いますね。