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ピエール・セルビー (アメリカ)
【 1953 ~ 1987 】



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ウィリアム・アンドリュース (アメリカ)
【 1955 ~ 1992 】



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キース・ロバーツ (アメリカ)
【 1954 ~ 1992 】



ピエール・デール・セルビー (出生名デール・セルビー・ピエール) は、1953年1月21日 (1952年とも) 、トリニダード・トバゴのトバゴ島で生まれた。

その後、セルビーはトリニダード島で育った。

両親はセルビーに善悪の違いについて正しく教えようとするが、セルビーはいつも問題行動ばかり起こした。

セルビーは常習的な嘘つきで短気な性格であり、欲しい物があるとすぐに手に入れないと気が済まなかった。

それらセルビーの一面を両親は知らなかった。


1970年6月、セルビーはアメリカに渡り、同年6月7日にニューヨーク・ブルックリンに到着した。


1973年2月、セルビーはアメリカ空軍に入隊し、9月にヘリコプター整備士としてユタ州ヒル空軍基地に赴任した。


同年10月1日、セルビーは上司の軍曹エドワード・ジェファーソンのアパートで音楽を録音していた。

するとジェファーソンが車の鍵がなくなっている事に気付いた。

ジェファーソンとセルビーは部屋の中を徹底的に調べるが、鍵は見つからなかった。


翌日の2日、セルビーがジェファーソンのアパートに戻って再び鍵を探すのを手伝うと鍵が見つかった。

ジェファーソンはセルビーを疑い、アパートの鍵を交換し、イグニッションも変えた。

ジェファーソンはセルビーに詰め寄り問いただすがセルビーは否定する。

だが、実際セルビーは車とアパートの鍵を複製する為に盗み、複製の際に「カーティス・アレキサンダー」という偽名でサインしていた。


同年10月4日午後10時から翌日5日午前4時の間に、ジェファーソンは銃剣で殺害される。

ジェファーソンは顔と頭部を執拗に長いナイフで刺されていたが、それは柄の部分しか露出していないという苛烈なものであった。

警察は何十人もの目撃者に話を聞き、犯行内容により強い殺意が見られた為、ジェファーソンの身辺を洗った。

すると、「カーティス・アレキサンダー」という名前にたどり着き、アレキサンダーがセルビーだと判明すると、警察はセルビーをジェファーソン殺害の最重要容疑者と逮捕した。

だが、セルビーは犯行を否認し、犯人だと確信するだけの証拠もなかった為、セルビーは釈放された (後の事件で再びセルビーが逮捕され判明する) 。


ウィリアム・D・アンドリュースは、1955年 (1953年とも) 、アメリカ・バージニア州ジョーンズボロで生まれた。

アンドリュースの幼少期はいわゆる普通の子で、周囲からは行儀の良い子供だと思われていた。


1973年、アンドリュースは空軍に入隊し、ヘリコプター整備士としてユタ州ヒル空軍基地に配属された。

ここでアンドリュースはセルビーと出会うのだが、同じ黒人で歳が近く、仕事上での数々の困難を乗り越えた事により友人となった。

ただ、同僚の空軍兵士たちからセルビーは嫌われており、誰も友達になろうとしなかった。

アンドリュースはセルビーとは異なり多くの仲間、友人がいたが、セルビーと親しくなると友人たちは彼の元を去って行った。


1974年3月、セルビーとアンドリュースは除隊を申請した。

2人の上官によると、基本的にアンドリュースはセルビーの従者であり、制御出来ない怒りを持つセルビーがリーダーであるように見えたという。


同年4月22日深夜、セルビー、アンドリュース、キース・ロバーツと他3人の男性計6人が、2台のバンに乗り、ユタ州ウィーバー郡オグデンのワシントン通り2323番地にある「Hi-Fi Shop (ハイ=ファイショップ) 」に向かった。

セルビーとアンドリュースを含む4人が拳銃を振りかざし店に侵入し、ロバーツともう1人が車に残った。

この時、店内には2人の従業員、スタンリー・ウォーカー (20歳♂) とシェリー・ミシェル・アンスレー (18歳♀) がいたのだが、2人は人質に取られた。

セルビーとアンドリュースは2人を店の地下室に連れ込み拘束すると、一味は強盗を始めた。

その後、コートニー・ネイスビッツ (16歳♂) が店にやって来る。

コートニーはこの日の朝、店舗の隣に用事があったのだが、その時に店の駐車場に車を停めさせてくれたウォーカーに礼を言う為に訪ねて来たのだった。

コートニーも人質となり、スタンリーとアンスレーと共に縛られ地下室に拘束された。

スタンリーの父親オーレン・ウォーカー (43歳) は、息子の帰りが遅い事を心配し店に向かった。

店に到着するとオーレンはセルビーらによって縛られ、地下室に連れられた。

オーレンが地下室に連れられると、アンスレーは泣き始め、犯人達に慈悲を求めた。

オーレンが地下室に連れ込まれた後、セルビーはアンドリュースにバンに戻って何かを持って来るよう指示した。

アンドリュースが戻って来ると、手に茶色の紙袋を持っていた。

それをセルビーに渡すと、紙袋の中から青色の液体で充たされた瓶を取り出した。

セルビーはその青色の液体をコップに注ぐと、オーレンに他の人質たちにも飲ませるよう指示した。

オーレンが拒否すると、セルビーはオーレンを殴打し、猿轡をはめうつ伏せの状態で縛った。

コートニーの母親であるキャロル・エレイン・ネイスビッツ (旧姓ピーターソン、52歳) も、帰宅の遅い息子コートニーを心配し店に向かった。

店に着いたキャロルも人質となり縛られた後、地下室に拘束され、息子の隣に置かれた。

これで人質は全部で5人となった。

セルビーとアンドリュースはオーレン以外の4人をそれぞれ座らせると、スタンリー、コートニー、キャロルに青色の液体を睡眠入りのウォッカだと言って無理やり飲ませた。

しかし、実際は水酸化ナトリウムを有効成分とする工業用排水管洗浄剤 (Drano) であった。

その毒性の強烈さは唇に触れた瞬間に巨大な水疱ができ、舌や喉を焼いて口の周りの肉を剥がす程であった。

3人は激痛で悶え苦しみ悲鳴を上げた為、セルビーとアンドリュースは口をダクトテープで塞ごうとするが、水疱から滲み出る膿がダクトテープの粘着を妨げた。

オーレンは最後に液体を飲まされたが、他の3人に起こった状態を見ていた為、液体を吐き出すと苦しむ振りをして誤魔化した。

また、アンスレーは命乞いを続けていた為か、液体を飲まされる事はなかった。

セルビーは死ぬのに時間が掛かり過ぎ煩く喚いている事に腹を立て、キャロルとコートニーの後頭部を撃った。

その後、セルビーはオーレンを撃つが失敗し、そして、スタンリーを撃って射殺すると最後に再びオーレンの後頭部を撃った。

4人を撃ち終えると、セルビーはアンスレーを地下室奥の隅に連れて行き、銃を突きつけ服を脱がせると何度も強姦した。

強姦に満足すると、セルビーは全裸のアンスレーを引きずって4人の所に連れて行き、うつ伏せにさせると後頭部を撃って射殺した。

アンスレーの最後の言葉は
「私は死ぬにはまだ若すぎる」
であった (生存したオーレンが後にそう証言している) 。

セルビーとアンドリュースはオーレンがまだ生きている事に気づいた為、セルビーは馬乗りになりオーレンの首にワイヤーを巻き付け絞め殺そうとするが失敗する。

すると、2人はボールペンをオーレンの耳に突き刺すと、セルビーは突き刺したボールペンを踏みつけた。

ボールペンは鼓膜を破り、喉の脇から突き抜ける程激しいものであった。

その後、セルビーとアンドリュースは2階に上がり、機材をバンに積み込み店をあとにした。

約3時間後、オーレンの妻ともう1人の息子 (スタンリーの兄弟) が2人を探しに店にやって来る。

オーレンの息子は地下鉄から物音を聞いた為、裏口を壊し中の様子を確認する。

そこで凄惨な現場を目撃し、オーレンの妻がオグデン警察に通報した。

スタンリーとアンスレーはすでに死亡しており、キャロルはかろうじて息をしていた。

キャロルは救急車でセント・ベネディクト病院 (現オグデン・リージョナル・メディカル・センター) に搬送されるが到着時に死亡が確認された。

コートニーも助かる見込みはなかったものの、懸命な治療の末、助かった。

ただ回復不能な重度の脳障害を負い、266日間入院して退院した。

オーレンは口と顎に大火傷を負い、耳の損傷による重傷を負ったものの、一命を取り留めた。

オーレンは重傷を負ったにもかかわらず、2人の強盗犯の人相について警察に証言した。

オーレンが証言したカリブ海訛りの背が低い眼鏡をかけた男は後にセルビーである事が判明した。

事件がニュースで報道された数時間後、匿名の空軍職員がオグデン警察に電話をかけ、アンドリュースが数ヶ月前に「近い内にハイ=ファイ・ショップを襲うつもりだ。邪魔する奴がいたら殺してやる」と言っていたと伝えた。

通報から数時間後、セルビーとアンドリュースが住んでいたバラック近くにあるヒル空軍基地のゴミ箱で2人の10代の少年が被害者の財布を発見した。

警察はヒル空軍の軍人の中に犯人がいると考え、軍人たちを集めると証拠品を1つ1つゴミ箱から取り出して群衆に見せた。

すると、ほとんどの軍人が大声で話し、周囲を歩き回って興味のない仕草を見せたが、ただ2人の男はじっと立って静かに見ていた事がわかった。

その2人の男がセルビーとアンドリュースであり、警察は早速2人を連行し尋問した。

2人は犯行を否認するが、ハイ=ファイ・ショップから持ち出されたステレオ機器を貸倉庫から押収する。


犯行翌日の23日、セルビーとアンドリュースは逮捕された。

また、数週間後、ロバーツをヒル空軍基地内で尋問を行い、ロバーツは強盗に関与した事を告白し逮捕された。

セルビー、アンドリュース、ロバーツの3人は第一級殺人と加重強盗で起訴された。

また、警察の公式報告書にセルビー、アンドリュース、ロバーツの他に3人がバンに乗り犯行に関与したと書かれていた。

しかし、警察はセルビーら3人を逮捕するだけの証拠しか持っておらず、他3人の逮捕は諦めた。

裁判中、セルビーとアンドリュースは出会った者全員殺すつもりで強盗に入ったと話し、数ヶ月前から静かに綺麗に殺人を犯す方法を探していた事が判明した。

そして、排水管洗浄剤で殺害するのが効率的な方法であると判断し、犯行に使用する事にしたと述べた。

生存者であるオーレンは重要な証人であったが、もう1人の生存者であるコートニーは脳障害により記憶喪失となっていた為、代わりに父親のバイロンが証言した。


同年11月16日、セルビーとアンドリュースは全ての罪状で有罪判決を受けた。

ロバーツは見張り役で実際には店に入らず、殺人にも関与していない事がわかった。

また、殺人を行う事も知らなかった為、強盗罪でのみ有罪判決となった。


同月20日、セルビーは3件の殺人、2件の加重強盗で3つの死刑が言い渡され、アンドリュースにも死刑が言い渡された。

ロバーツは5年から終身刑の不定期刑が言い渡された。

セルビーとアンドリュースに死刑が言い渡されると、NAACP (全米黒人地位向上協会) とアムネスティ・インターナショナルは、2人の死刑を減刑する抗議を行った。

NAACPは裁判において人種的偏見があったと主張し、死刑判決を取り消すべきだと要求した。

NAACPは被害者と陪審員が全員白人であると指摘し、アムネスティ・インターナショナルは本来陪審員の内、黒人が1人入る予定であったが、選考の際に検察側から容赦なく解任されたと主張した。

また、この陪審員が解任された理由が、事件に関係しているほぼ全員を個人的に知っている法執行官である事がわかった。

アンドリュースはNAACPの減刑要求を受けて、司法制度は人種差別だと非難した。

アンドリュースは『USA Today』紙のインタビューを受け、誰かを殺すつもりはなかったと主張した。

しかし、後にアンドリュースが事件の日の夜に排水管洗浄剤を購入し店に持ち込んだ事を認めた為、殺すつもりがなかったという発言が虚偽である事がわかった。

セルビーは服役中に27回も名前を変え (悪評から守るためとされる) 、最終的に「ピエール・デール・セルビー (出生時の姓、ミドルネーム、ラストネームを入れ替えたもの) 」に落ち着いた。

恩赦聴聞会でセルビーは自分は刑務所で人が変わったと主張した。

セルビーは、

「犯罪は成り行きだった。計画されたものではありません。人がどんどん (店に) 入って来て私はただパニックになった。こうなるのを防ぐには空軍から完全に離れるしかなかった。もちろん、アルコールと飲んでいた薬は何の役にも立たなかった。誰しも限界があり薬などはその限界を変えてしまう。私は自分自身にこう言い聞かせる『合理化は出来ない』とね」

と述べた。

だが、アンドリュースはセルビーが酒に酔ったり薬物を使用している所を見た事はないと主張した。

オーレンは恩赦審問で証言した際セルビーを拷問を楽しむサディストと非難し、処刑されて当然だと言い、
「初めにネイスビッツ夫人を撃った後、彼は跳ねたり弾んだりして自分のやっている事を楽しんでいる印象を受けた。私には辛いことだった。自分がこんな事に巻き込まれたなんて未だに信じられない。息子のスタンリーの命は2発の銃声とドラノ (工場用排水管洗浄剤) で奪われた。彼は私を5回も殺そうとしたがどれも致命傷にはならなかった。私たちの生活は変わりました」
と述べた。


1987年8月28日、恩赦を拒否されたセルビーの致死量の注射による死刑が執行された。

享年34歳。

死の間際、セルビーは全財産 (29ドル) をアンドリュースに遺贈した。

セルビーは最後の食事を拒否し、断食して祈り、讃美歌を歌い聖書を読んで最後の日を過ごした。

セルビーの最後の言葉は

「ありがとうございます。これで終わったら嬉しいよ」

であった。

セルビーの死刑執行後、アンドリュースの死刑執行停止を求める嘆願書が提出された。

嘆願書には「黒んぼは吊るせ」という手書きのメモが休憩中の陪審員エリアで発見されたこと、裁判官が無効審理請求と陪審員への質問権を拒否した事が主張されていた。

しかし、アンドリュースは嘆願者も控訴も棄却された。


1992年7月30日午前1時30分、アンドリュースは致死量の注射による死刑が執行された。

享年37歳。

アンドリュースの最後の食事はバナナスプリットで、それを妹や姪と分け合った。

アンドリュースの最後の言葉は、

「私を生かす為に懸命に努力してくれた人たちに感謝します。私がいなくなった後も彼らが平等な正義の為に闘い続ける事を願っています。私は家族を愛しています」

であった。

そして、注射が行われる直前、妹に

「愛しています。バイバイ」

と言った。

余談だがセルビーとアンドリュースはユタ州刑務所の中でも嫌われ者として悪名高かった。

1977年、ゲイリー・ギルモア (以前掲載) が銃殺刑により処刑場へ向かう途中、セルビーとアンドリュースの監房の前を通りかかった時、
「地獄で会おう、ピエールとアンドリュース! (「アディオス、ピエール、アンドリュース。地獄で会おう」とも) 」と言ったという。

唯一、死刑とならなかったロバーツは、13年近く刑務所生活を送った後、1987年5月12日に仮釈放され、親戚と暮らす為にオクラホマ州チャンドラーに移った。

しかし、アンドリュースの死刑が執行されてから1週間後の1992年8月8日に自殺している。

バージニア州クワンティコにあるFBIアカデミーでは、訓練生はこの事件について教わるようになっており、FBIの「犯罪分類マニュアル」にサンプル事件として掲載されている。

それくらいアメリカ犯罪史においても衝撃的な事件となっている。

コートニーとその家族の経験は1982年に『Victim:The other Side of Murder』というタイトルで著書が出版され、その中でセルビーはサイコパスでアンドリュースとロバーツは彼を恐れていたと述べている。

また、この事件は1991年にCBSのテレビ映画『Aftermath』の原作となっている。


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     スタンリー・ウォーカー()

     シェリー・アンスレー(中央)

     キャロル・ネイスビッツ()



《殺人数》
3人 (他2人重傷)

《犯行期間》
1973年10月4日、1974年4月22日



∽ 総評 ∽

『Hi-Fi murders』と呼ばれたこの事件。

以前から思っている事だが、個人的にこの事件はユタ州史上最悪だと思う。

FBIの講習でも教わる程の事件だが、頼むからもういい加減裁判における黒人差別を主張するのを止めて欲しい。

仮に意図的に陪審員に黒人を排除したとしても、事件の凄惨さをみれば極刑しかあり得ない。

例えば窃盗で逮捕され、それで死刑になれば「差別だ!」と抗議するのはわかる。

だが、今回の事件は数人で計画的に店を襲撃し、強盗、強姦、拷問、そして嬲って3人を殺すというこれ以上ない凄惨な犯罪内容のオンパレードである。

黒人だろうが白人だろうが事件の内容をみればその残忍さ、残酷さは群を抜くものであり、差別云々唱えるレベルの事件ではない。

セルビーは上司の軍曹を殺害したが、証拠不十分により釈放されてしまい、後の凶悪な犯行に繋がった。

おそらく現代ならDNA検査等によりセルビーの犯行だと断定でき、しっかりとした厳罰に処されていたと思う。

時代なので仕方ないが非常に残念でならない。



✴ 追伸 ✴

この事件は以前に1度掲載しており、今回は作り直しとなります。

ブログ開始1年くらいの記事はいずれ作り直そうと思っていたので、これからも作り直していこうと思っています。

1度読んだ記事かもしれませんが、読んで頂けると幸いです。