
レイモンド・ベイリー (オーストラリア)
【 1932 ~ 1958 】
レイモンド・ジョン・ベイリーは、1932年12月3日、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州ギルガンドラで生まれた。
ベイリーは4人の兄弟と1人の姉妹がいる6人兄弟であった。
14歳で学校を卒業すると大工として働き始め、若くして結婚した。
1957年9月、レンマークで1938年製黒いデソットを購入した。
ピートとサリーのボウマン夫妻は、娘のウェンディとマリオンを連れ、ノーザンテリトリーのグレン・ヘレン基地を管理していた。
1957年11月、家族の友人であるトーマス・ウィーランが休暇を利用して遊びにやって来る。
ボウマン一家とウィーランは一緒にアリススプリングス経由でアデレードに戻る事にした。
同年12月4日、ピートとマリオンはアリススプリングスに到着すると、飛行機でアデレードに向かった。
サリー (43歳) 、ウェンディ (14歳) 、ウィーラン (22歳) の3人は、家族が飼っている犬2匹と一緒に車でアデレードに向かった。
彼らは現金85ポンド (約1万4000円) 持っており、南オーストラリア州境近くのカルゲラホームステッドでガソリンを購入する。
その後、アデレードへ向かって南下するが、これが目撃された最後であり、アデレードに到着する事はなかった。
同年12月12日、車がオーストラリア空軍の兵士によって発見される。
車は人気のないサンダウン・ステーションの木々の下で発見されたのだが、車内に3人の姿はなかった。
数時間後、アボリジニの追跡者が3人の遺体を発見する。
3人全員が頭を殴られた後、撃たれていた。
追跡者は更に犯人が車を駐車した場所を発見し、その車が2輪のトレーラーを牽引していた事を指摘した。
目撃者によると、殺害された時間帯 (12月5日) に、アリススプリングスへ北上する緑色のトレーラーを牽引した灰色のフォードゼファーを見たと述べた。
その車は後にテナント・クリークの東で目撃され、持ち主がベイリーであった。
ベイリーは妻と幼い子供を乗せて車を北上していたと話した。
警察は限りなくベイリーが怪しいと考えたが、証拠がない為、逮捕する事が出来なかった。
しかし、1958年1月、警察はベイリーを別件で逮捕した。
ベイリーはクイーンズランド州マウント・アイザのマウント・アイザ病院で働いていたのだが、無許可の武器所持と自動車に関する罪で同病院で逮捕されたのだった。
逮捕から2日後、ベイリーはサリー殺害で起訴され、アデレードに送還され裁判を受ける事となった。
検察は何が起こったのか本当は分からないが、ベイリーがボウマン一行に銃を突きつけ、1000マイル (約1600km) 離れたマウント・アイザへのガソリン代を要求した事を示唆した。
ウィーランは自分の銃を取ろうとするが背中を撃たれ死亡した。
ベイリーはウィーランの銃を奪うとサリーとウェンディをその銃で殴り、ボウマン一行が乗っていた車にウィーランの死体を乗せ、道路の反対側に隠したと主張した。
裁判がアデレードで始まり、デイビッド・アイルズという男性が証人として出廷した。
アイルズは1957年9月に南オーストラリア州ウィルラ周辺で働いていた時にベイリーと知り合ったと述べた。
2人は親交を深め、よくウサギ狩りに出掛けた。
アイルズはベイリーに猟銃を売る事に同意したが、ベイリーは代金を払わずに町を出て行った。
アイルズは警察を2人がライフルを撃った場所へ連れて行き、そこで使用済みのカートリッジを押収した。
そのカートリッジは後に殺人現場で発見されたカートリッジと一致した。
ベイリーは絞首刑による死刑が言い渡された。
ベイリーは自分はボウマン一行を殺害しておらず、正当防衛で自分が真犯人を殺害したと主張した。
この主張によりベイリーの死刑執行は1週間延期された。
州はベイリーの主張が正しいかどうかを検証する決定を下した。
警察はベイリーを犯行現場に連れて行く事にし、サンダウン・ステーションから犯行現場へ車を走らせた。
ベイリーの話によると、事件の夜、サリーの靴を脱がせている男に出くわし、喧嘩の末にその男を刺し殺し、ボウマン一行の遺体が発見された場所から4マイル (約6km) ほど北にその男を埋めたと述べた。
ベイリーの主張した場所に行き、3時間半かけて捜索したが遺体は見つからなかった。
ベイリーは
「もう何も言う事はない」
と述べた。
1958年6月24日、アデレード刑務所で死刑が執行された。
享年25歳。
ベイリーの2人の兄弟は、執行日の前日に刑務所を訪れていた。
作家で調査報道家のスティーブン・ビショップは、グレン・パトリック・ハラハン刑事がベイリーとの面談記録と宣誓で嘘をついたと主張した。
ビショップの主張は、ベイリーが殺人事件前にクーバーペディ近くの男に売ったとされる凶器が見つかっていないというものだった。
また、ベイリーが自供した殺人の記述は、死後の検死結果と矛盾していた。
ベイリーは3人が走って来た時に撃ったと主張したが、検死の結果はサリーとウィーランは地面に横たわって意識を失っている状態で撃たれていた事を示していた。
ベイリーは裁判の中で、別室で妻の泣き声を聞いてから自白にサインしたと主張したのだが、刑事が署名すれば妻を解放してやると言ったと話した。
殺人現場近くではグレーのフォード・ゼファーが目撃されたが、ベイリーが乗っていたのは黒のデソートであった。
しかも、殺人現場に犯人のものと思われる足跡が見つかっており、サイズが7か8と推定されていたが、ベイリーの靴のサイズは5½しかなかった。
2013年2月、ビショップは南オーストラリア州知事にベイリーへの死後恩赦を訴えたが断られている。
《殺人数》
3人
《犯行期間》
1957年12月5日
∽ 総評 ∽
『The Sundown Murder (日没の殺人) 』と呼ばれ、南オーストラリア州史上、最大規模の捜索となった事件。
この事件は冤罪の可能性が非常に高い。
数々の証言や事実がベイリーが無罪であると言っているように思われる。
だが、ベイリーが有罪となってしまったのは、数々の理由がある。
ベイリーは殺された3人を殺害した犯人を殺したと言っているが、それが事実だとして殺害した真犯人を埋めたという場所で遺体が発見されなかった。
また、それが事実だとして、何故、すぐに警察に駆けつけなかったのか? (おそらく本人の犯罪歴などから信用されないか、むしろ犯人だと疑われるからだと思われるが) 。
しかも、別の犯罪を犯してしまっているのも不利に働いてしまった。
ただ、これが時代が違えば全く異なる結果になったといえる。
現代であれば、DNA鑑定などでベイリーが無罪であると証明出来た可能性が高い。
せめて、死刑ではなく終身刑にして、以後も調査を続けるべきであったと思う。
コメント
コメント一覧 (10)
狩猟のためだったのはわかるけど、無許可で車を持っていたとなったら余計に疑われやすい。
早期の死刑執行は素晴らしいけど、今日のような話を聞くと数多の未解決事件が未解決のまま真犯人が見つかってないのはもどかしい。
ただ、死刑制度の存廃に関してはちょっと違うぞ。
昨日執行された奴などは問答無用で殺せよ
犯罪を犯してるのもまたダメでしたね。
疑われる要因しかないですし。
冤罪の可能性がない死刑囚は仰る通り即刻執行して欲しいですね。
警察の責任ですが、司法の問題にすり替えて死刑廃止の理由に掲げる人がいます。
確かにヒューマンエラーというのは存在しますが、どこまでも白黒思考に陥ると、
過去まで遡って、死刑の理由としては不十分だったとか、
未確定の未来の冤罪の被害者が出るとか、収集が付かなくなります。
この頃の豪州は保守的で、アメリカの南部と似ていますが、
例えば中国がそのような事と同じように、
社会体制自体がそういう時代だったので仕方ないです。
左派の盲点は、今の社会に黒い部分があれば、
全て白く塗り替えなければいけないという思い込みです。
然し、最初から真っ白なのは例えば赤ん坊の頭の中だけで、
社会というのはそもそもグレーだと思います。
判決を下すのは司法ですからね。
どうしても司法の責任にもなってしまいますね。
ただ、個人的に思うのは、司法に捜査のやり直しを指示出来る権利とかあればなと思います。
ミャンマー、スリランカ、台湾でも死刑制度が復しています。
チュニジアも死刑制度復活を考えているとか…
復活させるべきですね。
まあ廃止国はもれなく復活させるべきですが。
そうですね。
全てを諦めたのでしょうね。
まあ衝撃的な事件の後は模倣犯は出てきますからね。
ほとんどが口だけで無視して構いませんが、ごく一部ヤバいやついるから気を緩められないですね。