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パトリック・ティシエ (フランス)
【 1952 ~      】



パトリック・ティシエは、1952年8月24日、フランス・ブールジュで生まれた。

ティシエは6人兄弟の末っ子で、両親はお互いを虐待する異常な関係であった。

ティシエが11歳の時、母親は家を出て電気技師の見習いとなり、父親はマリア・ルナという女性と付き合い始めた。

13歳の時、ティシエは姉を強姦しようとした為、姉は警察に通報した。


1969年3月から4月にかけて自宅のバスルームで継母の頭を殴り、首を絞めて強姦しようとするが失敗する。

継母はティシエはを保健社会局 (通称:DDASS) に報告し、ティシエの調査を行った。

その後、ティシエは審判員と複数の精神科医に診察され、それ以上暴力的な攻撃を行う事はないと判断された。

ティシエはサービス・ステーションのポンプ係として雇われ、酒場で16歳の美容師見習い、マリー・フランソワーズ・ピンソンと出会う。


1971年5月1日、ティシエは徴兵されるのを間近に控え、ピンソン (18歳) をダンスに誘った。

ダンスの後、2人はブールジュ近郊の川沿いにあるル・ドルーエを歩き、ティシエはピンソンに性行為しようと誘った。

しかし、ピンソンが断ると、その首を絞めて殺害してしまう。

その後、屍姦し遺体を川に投げ捨てた。

ピンソンの遺体は翌日通行人によって発見された。

ティシエはすぐにダウンタウンのモーテルの一室で逮捕された。


1972年4月25日、ティシエには懲役20年の判決が言い渡された。


1982年12月15日、刑務所での模範的な行いを評価され仮釈放される。


同年12月22日、トゥールーズでティシエは女性に散弾銃を向けて脅し、車に乗せ郊外に連れ出した。

ティシエは女性を強姦するが、女性は逃げる事に成功した。


翌日の23日、ティシエは更に別の若い女性を強姦しようとするが逃げられてしまった。


1983年4月、ティシエは逮捕された。

ティシエは強姦、強姦未遂、窃盗などで有罪となり、懲役20年が言い渡された。


1992年1月、刑務所の行いの良さを評価され、再び早期釈放される。

釈放されたティシエはペルピニャンに移り、モルモン教のコミュニティに参加した。


1993年8月6日、ティシエはペルピニャンで隣人のコンチェッタ・レンマ (45歳♀) を強姦し殺害した。

ティシエはレンマの遺体をシャワーカーテンで包み、カノヘスの入り江のトンネルに隠した。


同年9月10日、ティシエはペルピニャンで友人のマリー=ホセ・ゴーズ (44歳♀) を襲う。

ティシエはゴーズの首をスカーフで絞めようとするが激しく抵抗する。

ティシエはゴーズの頭を掴むと何度も地面に叩きつけ、ゴーズは気絶してしまう。

ティシエはゴーズの服を脱がすと強姦した。

ゴーズは目を覚ますとティシエを説得し、落ち着かせてその場を去った。


同年9月13日午後6時、小学校の駐車場でティシエはモルモン教徒の友人ジョセリーヌ・ミリュイの娘カリーヌ・ヴォルカール (8歳) を待っていた。

ティシエはヴォルカールに家に連れて行ってあげると話し、ティシエを知っていたヴォルカールは素直に従った。

ティシエは車を人目のつかない倉庫近くまで連れ出すと、

「ゲームをしよう」

と言った。

そして、ヴォルカールに手錠とギャグをかけ、頭にフードを被せた。

その後、ヴォルカールを車の座席の間に隠すと、村外れの廃屋の近くまで車を走らせた。

車を停めるとヴォルカールを後部座席に乗せ、手首を押さえながら強姦した。

強姦が終わるとヴォルカールを何度も殴り、最後は首を絞めて殺害した。

殺害後、ヴォルカールを更に屍姦し、廃屋の井戸に遺体を投げ込みゴミの山で隠した。


同年9月21日、ティシエはエロー県のポーランで逮捕された。

逮捕される際、ティシエは抵抗する事なく素直に従った。

車内からは犯行に使用した武器が見つかり、ヴォルカールの遺体の場所を捜査官に教えた。


1994年2月26日、ヴォルカールの叔父であるドミニク・ミリュイは、ペルピニャン市長の補佐官をオフィスで人質にとり、ティシエの身柄を引き渡すよう要求した。

しかし、その直後、ドミニクは警察に無条件で投降した。


1998年2月26日、ティシエの裁判が始まった。

精神医学の専門家は、ティシエは精神疾患を患っておらず、暴力と性的嗜好を同一のものとして関連付けていると結論づけた。

ティシエはその性的嗜好、欲求を満たす為に被害者に複数の拷問を加えていた。

ティシエはペルピニャンでの殺人について質問されると、「衝動を感じていた」と供述した。

ティシエは裁判の最後に犯した残虐行為の全てを謝罪した。


同年1月30日、ティシエは終身刑が言い渡された。

ティシエが仮釈放の資格を得るのは2024年である。

1994年に、当時の法務大臣がティシエのような犯罪者が原則として刑務所から出る事が出来ない法律を提案した。

しかし、この法律は未だに使用されていない。


最後に裁判で述べたティシエの発言で終わりたいと思います。

「ペルピニャンの街にもう1人のパトリック・ティシエを作って欲しくない」



《殺人数》
3人 (他被害者3人)

《犯行期間》
1971年5月1日~1993年9月13日



∽ 総評 ∽

今回の鬼畜の犯行は100%司法の責任である。

13歳の時の姉の強姦未遂、16歳の時の継母への暴行、この時点でティシエが回復不能な異常者であったのは確定である。

それなのに年齢もあってかもう危険ではないと判断され容易に外に出されてしまう。

また、2度も懲役20年となったのに刑務所での行いが良かったとして早期に釈放されてしまう。

一体、どのくらい犯罪者を甘やかせばいいのか。

しかも、こんな鬼畜が後3年足らずで外に出て来る可能性が高いのである。

司法はどれだけ国民の生活を脅かせば気が済むのだろうか。

そんな司法だから犠牲者の叔父がティシエの身柄を引き渡すよう市長の補佐官を人質に取ってしまうのである。

いい加減善良な国民に寄り添う司法を作って欲しいものである。