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セルゲイ・ポマズン (ロシア)
【 1981 ~      】



セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・ポマズンは、1981年6月3日、ロシア (ソ連) ・ベルゴロド州シェベキンスキー地区クピノで生まれた。

父親のアレクサンダーは長年、肥料工場に勤めていたが、1990年代に深刻な給料の滞納が原因で退職し、シェベキンスキー地区で個人の狩猟農場を経営した。

母親のリュミドラは地方の教育局で経理を担当した。

ポマズンはベルゴロドの中学校に通い、教科の成績は悪かったが、実技教科の成績は良かった。  


1996年、自動車整備士を目指し、訓練を受ける為に第33職業訓練学校に入学した。


1999年、ポマズンはロシア軍に徴兵されるが、軍医委員会は精神的にも肉体的にも何の問題もなく完全に適合し、服務に制限がないとみなされるカテゴリー「A」に入ると承認した。

ポマズンはベルゴロド州の電子戦大隊に配属され、大隊本部の電気技師に任命された。

同僚によるとポマズンは少し変わった人物だと思われていたが、目立たない存在であったという。


2002年、ポマズンは共犯者と共に個人のガレージからVAZ-2107の車を2台盗み、私的な利益の為にスクラップした罪で有罪となり、2年間の執行猶予と2000ルーブル (約3000円) の補償金の支払いを言い渡した。


2003年、ポマズンはベルゴロドの病院の駐車場でVAZ-21213を、個人のガレージからVAZ-2106をそれぞれ盗み廃車にして利益を得た。

また、逮捕時にポマズンは警察官の耳を殴った罪でも有罪となった。

ポマズンはセキュリティの低い施設で5年1ヶ月の刑が言い渡された。

ポマズンは服役は平日のみで、週末は自宅での一時帰宅が認められた。


2007年9月、ポマズンの仮釈放は拒否される。


2008年、ポマズンは週末の休暇中にMAZDA6とLada111の2台の車を盗んだ罪で逮捕され有罪判決を受けた。


同年6月17日、裁判所はポマズンに5年4ヶ月の高セキュリティの施設への収監を追加宣告した。


同年7月23日、控訴により4年10ヶ月に減刑され、ベルゴロドの収容所に移送された。

ポマズンはバルイキの収容所に移されるが、素行が悪かった為、その度に罰を受けた。

ポマズンは刑務所の規則を故意に破り、他の受刑者から逃れる為に隔離病棟に入れられた。


2012年12月20日、ポマズンは釈放されると両親と同居し、ビデオゲームをしながらほとんど外に出ず過ごした。

そして、次第にポマズンは精神的に崩壊していき、卑猥な言葉で悪態をつき、台所のスイッチを40回くらい連続で入れたり切ったりしたり、小声で独り言を呟いたり部屋の中をフラフラと歩き回るようになった。

また、家族のアルバムや軍隊の写真を全部取り出して燃やし、理由を問われると

「邪魔だ、前世の写真だ」

と答えた。

その後、ポマズンはタクシー運転手になろうとするが、2013年4月、実技試験で不合格者となる。

試験に落ちたポマズンは家に帰るとナイフで父親を襲った。

父親はなんとかポマズンを退け軽傷で済み、翌日、地元の警察署にポマズンを引き渡した。

ポマズンは起訴されず警察官のアドバイスを受けて釈放された。

その後、ポマズン実技試験に2度落ち、3回目の試験に落ちた時、教官とその子供を殺すと脅し、チェチェンやGRU (ロシア連邦軍参謀本部情報総局) について叫んだ。

母親は息子の行動や様子について内務省ベルゴロド州支部に訴えたが却下された。

母親は代わりに心理クリニックに連絡するが、患者を強制的に治療する権利はないと言って拒否される。

ただ、再度警察に連絡するよう助言された。


2013年4月19日、母親はベルゴロド州警察に訴えるが、何の返答もなかった。

この頃、ポマズンはベルゴロドのデパートで侮辱され追い出された (と本人が思っている) 警備員に怒りを露にした。

ポマズンは警備員殺害を考え、店の民間警備員との銃撃戦も想定して復讐を計画する。


同年4月22日朝、ポマズンの両親が仕事に出掛けの後、父親の金庫から半自動ライフルや弾薬を奪い、また、父親の車に乗ってベルゴロドの中心部へ向かった。

14時16分頃、車を停め銃を布に包んで隠すとポポバ通りとナロドニー大通りの交差点近くにあるオホタ猟銃店を訪れた。

ポマズンは弾薬を要求するが、拒否されると2人の店員と1人の客に発砲し、陳列棚に侵入して2丁のカービン銃と250発以上の異なる弾薬を奪った。

その後、ポマズンは店を出ると、通りすがりの通行人3人を銃撃し、その内2人 (男性と14歳の女子学生) はその場で死亡する。

もう1人も女子高生 (16歳) であり、負傷して病院に運ばれるが1時間後に死亡した。

そして、更に3人 (28歳~49歳) をランダムに撃ち射殺した。

銃撃後、ポマズンは車で逃走するが、すぐに身元が判明した。

ポマズンはベルゴロド郊外の森の端まで車で行き、そこで車を乗り捨てると森の中に入った。

森の中で服を着替え、銃撃に使用した銃を埋めた。

警察はポマズン逮捕に300万ルーブル (約450万円) の賞金を出し、約2000人の警察官を投入して大規模な捜索を開始した。

翌日の23日、ポマズンは貨物列車で逃走しようとしたクルスク州の鉄道付近で逮捕された。

逮捕の際、ポマズンはナイフで激しく抵抗した為、警察官4人が負傷した。

ベルゴロド州は同年4月23日と24日を喪に服す日とし、当局は被害者の家族にそれぞれ100万ルーブル (約150万円) を配る事を約束した。

ポマズンは精神分析を受け、裁判に適していると判断された。


同年6月22日、裁判は予備審理から始まり、検察官はポマズンに終身刑を要求した。

ポマズンは銃撃について自供し、

「特別な作戦が上手くいかなかった偶発的な出来事だった」

と述べ、反省は全く示さなかった。

ポマズンは自分を侮辱した警備員の殺害と、その後に介入してくるであろう警察との銃撃戦に備えてより多くの銃と弾薬を盗むつもりだったと証言した。

最初の銃撃は私服警官が武器を取り出すのを目撃し、車まで道を確保する為に通行人を撃った事がきかっかけだったと主張した。

ポマズンは法廷で1999年から2001年にかけて行われた第二次チェチェン紛争で、最初はロシア正規軍として、その後は秘密組織「ロシア軍参謀本部特殊部隊」で戦った事により民間人を殺す事に耐性が出来たと述べた。

ポマズンはチェチェンでの一連の特殊作戦で、1000人近い罪のない人を殺したと述べた。

また、チェチェンの市民が戦車に下敷きにされ、女性や子供は首をはねられたと述べ、その光景を目撃して以来、悪夢に悩まされていると語った。

しかし、裁判に提出された資料によるとポマズンは確かに軍に所属していたが戦闘に参加した事はなかった。

その事についてポマズンは自身の勤務や任務ついては機密事項であり、それ以上詳細を説明する事は出来ないと証言を拒否した。

弁護士はポマズンの精神状態が悪い事を理由に懲役25年を求刑し、ブラック・ドルフィン刑務所への収容を求めた。


同年8月23日、判事が6件の殺人、違法な武器の所持、警察官への暴行の罪などで有罪判決となり終身刑が言い渡された。

判決が読み上げられると、ポマズンは悪態をつき、法廷にいる人たちを殺すと脅し、法廷カメラマンの目を潰すといった攻撃的な反応を示した。

ポマズンは判決を不服として控訴しようとしたが、控訴は却下された。


2014年1月28日以降、ポマズンはヤマロ・ネネツ自治管区にあるスノウイーオウル刑務所に収容されている。


最後に逮捕された際のポマズンの発言で終わりたい思います。

「地獄に向かって撃っていた」



《殺人数》
6人 (他1人負傷)

《犯行期間》
2013年4月22日



∽ 総評 ∽

ロシアにおける銃乱射事件であるが、白昼堂々と店舗や通路で銃を乱射するというなんとも恐ろしい凶行である。

ポマズンは車の盗難で何度も逮捕されたがその都度釈放され、しかも、両親はその異常性を十分承知していた。

その為、警察や心理クリニックなどに助けを求めたがたらい回しに遇い、結局何の処置もされなかった。

はっきり言ってこの事件は国の責任以外の何物でもない。

どこかで誰かがまともに対応していれば最後の惨劇は防げたはずであった。

裁判では反省の姿が全くなく、悪態すらつくその様子はむしら清々しさすら感じてしまう。

中途半端な反省や後悔を示されるより、恨み続ける事が出来るのでよっぽどましである。