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ジル・ド・レ (フランス)
【 1405頃 ~ 1440 】



ジル・ド・レは、1405年頃 (日付は不明。1405年後半とされる) 、シャントセ=シュル=ロワールの城で生まれた。

父親はモンモンランシー・ラヴァル家のガイ2世、母親はマリー・ド・クラオンであった。


1415年、母親が死に、同年9月に父親も狩猟中に死亡してしまう。

ジルは弟と共に母方の祖父に引き取られ、祖父に甘やかされて育てられた。

ただ、教育は受けられず放任された。

祖父は領地を広げる為にジルを政略結婚に使い、2度望まぬ結婚を強いられる。

ただ、1度目の結婚は高等法院に認められず、2度目の結婚は婚約者の死亡でどちらも失敗に終わる。


1420年11月22日、ジルは近隣の領主の娘カトリーヌ・ドアールと結婚させられる。

祖父はカトリーヌを誘拐して無理やり結婚を認めさせたのだった。

祖父がモンフォール家に味方した為、パンティエーヴル家と戦いとなり、ジルは初陣を飾った (ただし実際に参加したかは不明) 。


1425年、ジルはシャルル7世 (フランス・ヴァロワ朝第5代国王) の側近として登場し、リュード城の戦いでイギリス軍の隊長を捕虜にした (殺害したとも) 。

その後、百年戦争が再び激しさを増すと、ジルはフランス軍の指揮官として戦場で勇敢に戦い活躍する。


1428年末からオルレアン包囲戦 (イングランドとフランスの百年戦争の転換点となった戦いで、1415年のアジャンクールの戦い以降、敗戦が続いたフランスにとって約15年振りの大勝利となった。以降、イングランドは下降線を辿る事となる) が始まり、ジルはジャンヌ・ダルクに協力する。

そして、他の将校らと共にパテーの戦いに参加し、戦争終結に貢献するとジャンヌと共に「救国の英雄」と呼ばれた。

実はジルは密かにジャンヌの監視をシャルル7世から命じられていたが、7歳下のジャンヌと接する内にその人間性に魅了され感化されていき協力するようになった (とされる) 。


同年7月17日、シャルル7世の戴冠式に出席し、元帥に列せられた。


同年9月、パリ包囲戦でジルはジャンヌと一緒に戦いに参加し、パリ奪還に失敗する。

これがジャンヌと共にした最後の戦いとなり、永遠の別れとなった。


1430年5月、ジャンヌがイングランドに捕縛されたと聞かされると、ジルは激しく動揺する。

しかも、この時代、捕虜の返還の為、身柄の引き渡しを求め身代金を支払うのが当たり前であったがシャルル7世はそれを行わなかった (シャルル7世はジャンヌを見殺しにしたのだが、それには様々な説がある) 。

それらを知ったジルはショックのあまり次第に心が荒んでいった。


1431年5月、ジルはジャンヌを取り戻す為にルーアンを攻撃する (失敗に終わる) 。

その後、ジャンヌが処刑されるとジルの精神は完全に破綻してしまう。


1432年、ジルは国内の政争に巻き込まれ、祖父が死んだ事もあり立場が危うくなっていく。

そして、1434年から1435年になると、ジルは次第に軍や国の生活から身を引き、自身の興味を追及していく。

ジルは礼拝堂を建設し、芝居小屋「オルレアンの詩の神秘」を制作する。


1435年7月2日、ジルは浪費家として糾弾され、財産の売却を禁じる勅令が下される。

だが、債権者がジルを追及し、ジルは美術品や書籍等を担保に多額の借金した。


同年9月頃、ジルはオルレアンを離れた。

ジルは精神が破綻し始めた1432年から1433年の間に、初めて子供を襲い始めた (と後に本人が告白している) 。

ジルは手下を使って幼い少年をさらっては次々殺害していった。

最初の殺人はシャントセ=シュル=ロワールで起きたとされる (記録は残っていない) 。

文書で残される最初の殺人は毛皮商人見習いジュドン (12歳。ファーストネーム不明) といわれる。

ジュドンは従兄弟が毛皮屋にジュドンを貸して欲しいと頼んだ後に行方不明となった。

その後、ジルはマシュクルに移り、そこで大量の少年をさらっては強姦して殺し、また、殺すよう命じた。

1971年にジャン・ベネデッティが出版した伝記の中に、ジルがどのように少年たちを殺したかについて語っており、それによると、
「少年は良い服を着せられ、大量の食事と酒で始まり、その後、ジルと少年だけが入れる部屋に連れて行かれた。そこで少年は初めて自分が置かれている状況を目の当たりにして大いにショックを受け、それを見てジルは最初の喜びと興奮を覚えた」
と書かれていた。

ジルのボディガードであるエチエンヌ・コリヨーは、多くの犯罪の共犯者であり、ジルに積極的に協力した。

コリヨーはジルが子供を裸にし、泣き叫ばないようにフック吊るした後、子供の腹や太腿で自慰行為をしていたと後に証言した。

被害者が少年の場合、性器 (特に睾丸) や臀部を触った。

そして、少年を下ろした後、ジルは慰め遊びたいだけだと言った。

その後、子供を自分で殺すか、従兄弟か別のボディガードに殺させた。

また、ブラケマールと呼ばれる短く太い両刃の剣を常に手元に置いており、ジルが少年少女問わず首を切り裂く前に虐待したり、首を切り裂いた後に虐待した事もあった。

ジルは自らの告白で、

「子供たちが死んだ時、彼らにキスをし、最も美しい手足と頭を持つ者は抱き上げ賞賛した。その後、彼らの体を残酷に切り開き、内臓を見て喜び、子供たちが死ぬ時は彼らの腹に座り、死んでいくのを見て喜び笑った」

と述べている。

また、ジルは一部遺体を燃やしたとコリヨーは述べた。


1440年9月15日、司教の調査の結果、ジルは共犯者らと共に逮捕された。

多くの証人の証言はジルの有罪を立証するのに十分な根拠があると裁判官を納得させた。

近隣の村の農民たちは自分達の子供が食べ物を求めてジルの城に入り、2度と姿を現さなかったと次々告発した。


同年10月21日、ジルは容疑を認めた為、裁判所は拷問によって自白させる計画を中止した。

裁判での記録の一部は、裁判官が最悪な部分を削除するよう命じる程、残酷で生々しいものが含まれていた。

ほとんどの遺体が焼かれたり埋められたりした為、正確な犠牲者は数は不明だが、一般的には100人から200人といわれている。

ただ、専門家によっては600人、または1500人という人もいた。

年齢は6歳から18歳までで、ほとんどが少年であった。

裁判では罪を告白しながら涙を流して懺悔し、周囲の人に許しを請うた。


同年10月25日、ジルには死刑が言い渡された。


翌日の26日、ジルと2人の共犯者は絞首刑と火炙りによる死刑を執行する為に処刑場であるビース島に移送された。

ジルは処刑を目撃する為に集まった群衆に向かって敬虔な気持ちで演説し、共犯者の2人に勇敢に死に、救いの事だけを考えるよう諭した。

ジルは仲間の中で最初に処刑される事を要求し、それは受け入れられた。

11時、壇上のブラシに火がつけられ、絞首刑が執行され死亡した。

処刑の際には魂が救われるよう祈りを捧げた。

現在、ジルを無罪と考える研究者もおり、ジルの城では子供の死体は発見されておらず、土地を没収する事で利益を得ようとするライバルの領主によって作られた冤罪と考えていた。

しかし、大半の歴史家はジルの無罪・冤罪説を否定しており、犠牲者数こそ大袈裟に伝わってる可能性はあるものの、犯行は間違いないとしている。

1697年に記録されているフランスの民話「青髭」は、ジルがヒントとなり考えられたとされている。



《殺人数》
100人以上 (諸説あり)

《犯行期間》
1432年?~1440年



∽ 総評 ∽

エリザベート・バートリと並び中世を代表するシリアルキラーとされるジル・ド・レだが、事実であれば子供ばかりを狙う鬼畜振りである。

ただ、今から600年ほど前という事と時代を考慮しなければならない。

ジルはジャンヌ・ダルクが捕まり処刑されてから一気に生活が荒み、精神が破綻した。

ジルがジャンヌを慕っていたのは間違いなく、シャルル7世によって密かに監視を命じられたにもかかわらずその人物の虜になった。

7歳程年下の16歳の少女に何故それほど魅了されたのかわからないが、当時、イングランドにより劣性であったフランスにおいて、勇敢で魅力的な少女の台頭に神々しさを感じたのかもしれない。

ジャンヌは救国の英雄として現在もフランス国内で非常に人気が高いが、共にしたジルですら虜になるくらいなので、今でも人気があるのは当然といえる。

これだけの異常性は元々秘めていたものであると思うが、もし、ジャンヌが死ななければジルがこれ程の凶行に出なかったとすると、シャルル7世の罪はジャンヌを見殺しにしただけでなく相当重い。