
ヴラド3世 (ルーマニア)
【 1431 ~ 1476 】
ヴラド3世は、1431年11月10日 (1430年という説もある) 、ヴラド2世の次男として生まれた。
1436年、父親がワラキア公国の君主となると、バルカン半島に進出するオスマン帝国との間に緊張が走る。
1444年、ヴァルナの戦いでワラキアを含む連合軍がオスマン帝国に敗北すると、父親は忠誠心を示す為にヴラドと弟のラドゥを人質に出した。
1447年、父親のヴラド2世と長男のミルシアが暗殺される。
ヴラド2世の死により、ヴラドの従兄弟のヴラディスラフ2世がワラキア公となる。
しかし、ワラキア支配を目論むオスマン帝国が、1448年8月、ヴラディスラフ2世を排除しヴラドをワラキア公の座に据えた。
だが、ヴラディスラフ2世の反逆に遭い、わずか2ヶ月後の同年10月に公位を追われた。
同年末、ヴラドはオスマン帝国に亡命し、その後、1450年にモルドバ公国へ行き、それからハンガリーへ向かった。
1456年、ヴラディスラフ2世とハンガリーの関係が悪化すると、ヴラドは支援を受けてワラキアへ侵攻する。
そして、ヴラディスラフ2世を打倒し再びワラキア公に返り咲いた。
ヴラドはハンガリーとオスマン帝国と同盟を結び、オスマン帝国が要求した6000ドゥカート (約1億円) を支払った為、正式にワラキアの君主に承認された。
1459年、ヴラドはワラキア内の大貴族200人以上を粛清し、権力を掌握し中央集権化を進めた。
また、この処刑は父親と兄の暗殺に関わった貴族への復讐でもあり、200人を家族と共に食事に招待し、女性と老人はその場で処刑し串刺しにし、男は死ぬまで強制労働させた (とされる) 。
同年、更にヴラドはクローンシュタット (現ブラショブ) のザクセン人がヴラドのライバルを支持すると、ザクセン人のワラキアでの商売を規制した。
また、規制だけではなく3万人を串刺しにし、クローンシュタットを焼き払った。
この時、ヴラドは苦しむ姿を楽しむ為、串刺しされた人々を前にして食事をとった。
更にヴラドはワラキアに戻ると規制に違反したザクセン人の商人を串刺しにした。
1460年4月、ヴラディスラフ2世の息子ダン3世がワラキアに侵攻するが、ヴラドは戦いに勝利し、ダン3世を捕らえる。
捕らえられたダン3世は自らの死刑宣言を読まされると、自身の墓穴を掘る事を強要され最後は首を切られた。
その後、ヴラドはダン3世に加担したブラショフに制裁を加える為、トランシルバニアに侵攻した。
戦いの結果、賠償金の支払いやオスマン帝国や他の国から攻撃された際の援軍を送る事を取り決めた有利な平和協約を締結した。
オスマン帝国が貢納金を6000ドゥカートから1万ドゥカート (約1億6000万円) に引き上げると、ヴラドは貢納金を納める事を拒否する。
オスマン帝国がワラキアに使者を派遣して貢納を要求すると、ヴラドは使者を生きたまま串刺しにした (ヴラドは使者に無礼があった為と釈明している) 。
このヴラドの対応にオスマン帝国のメフメト2世 (別名「征服者」とも呼ばれる) が激怒し、大軍を率いて何度かワラキアに侵攻した。
兵力で劣り、圧倒的に劣勢であったヴラドだったが、ゲリラ戦と焦土作戦を駆使してその都度激しく抵抗し、何度もオスマン帝国軍を撃退した。
1462年春、メフメト2世が再び9万という大軍を率いてワラキアに侵攻する。
ヴラドは敢えて首都トゥルゴヴィシュテにオスマン帝国軍を導き、そこで夜襲を仕掛ける。
夜襲とゲリラ戦を駆使した結果、先兵隊のブルガリア兵2万人を捕らえ串刺しにし、オスマン帝国軍の進路に遺体を晒した。
ヴラドはメフメト2世を捕らえ殺そうとするが、イェニチェリの必死の抵抗に遭い捕らえる事は出来なかった。
メフメト2世は串刺しにされた自軍の様子にショックを受け、陣中で疫病が発生した事もあってワラキアから撤退した。
フランスの歴史家は、
「幼児は母親と一緒に串刺しにされ、遺体のはらわたには鳥が巣を作っていた」
とその凄惨な様子を記している。
同年、オスマン帝国がヴラドの弟であるラドゥを支援するとヴラドをよく思っていない貴族たちを糾合し、ヴラドの追い落としに成功する。
ヴラドはトランシルバニアに落ち延びたが、ハンガリー王子マーチャーシュ1世にオスマン帝国に協力したとして捕らえられると幽閉される。
1474年、ヴラドは12年間に及ぶ幽閉生活から釈放される。
ヴラドはカトリック教国から支援を得る為にカトリックに改宗し、王の妹も結婚するが、その代償としてワラキア人民の人心を失った。
1476年12月19日、ヴラドはトランシルバニア軍を率いてワラキアに進軍し、再びワラキアのトップに返り咲くが、同年にオスマン帝国との戦いで戦死する。
ヴラドの死については不明な点が多く、一説には敵対する相手に暗殺されたとも、1477年に死亡したともいわれる。
オスマン帝国軍はヴラドの首を塩漬けにして首都コンスタンティノープルに持ち帰り、首は晒された。
ヴラドは前述したように敵を容赦なく串刺しにし、その残酷さが現在に伝わる。
前述した酒宴での皆殺しや、治安維持や病気流行の抑止としてロマ (別名ジプシー。民族集団) を建物に集めて火を放ち焼き殺した。
前述したオスマン帝国の使者殺害に関しても、帽子を取らなかった事を注意すると、トルコの流儀だと応えた。
「ではその流儀を徹底してやる」
と言うと帽子ごと使者の頭から串刺しした。
このようにヴラドは生涯約8万人を殺害したとされる。
ただ、ヴラドは現在ではワラキアの歴史において最も重要な支配者の1人とされており、ルーマニアでは国を救った国民的な英雄とされている。
ヴラドが生まれた時代はオスマン帝国の権勢が強く、ワラキアは常に脅威に晒され緊張感が続いていた。
その中で、ヴラドは持ち前の勇猛さと優れた軍略により何度もオスマン帝国軍を撃退した。
小国であるワラキア公国が大国のオスマン帝国と互角以上に渡りあえたのはヴラドの活躍は言うまでもなく、ヴラドが好んだゲリラ戦と焦土作戦にオスマン帝国軍は手を焼いた。
当時、オスマン帝国はヨーロッパ侵略を目論んでおり、度重なるヴラドの勝利にヨーロッパ諸国は沸き上がり、賞賛の声が届けられた。
実はヴラドがハンガリーで幽閉されたのは当時のハンガリーの実情が関係していた。
ただ、ヴラドを幽閉するというのは当時のヴラドの活躍を考えればヨーロッパ諸国から非難を受けかねない為、マーチャーシュは1世ヴラドのこれまでの悪行を誇張し捏造した。
それは「人を無差別に殺して晩餐会を開き血肉を食らった」や「田畑を燃やして国民を飢えさせた」といったものであり、わざわざ紙に印刷して各国に配った (これが現在まで伝わる残虐性の元ではないかとされている) 。
ヴラドが貴族を串刺しにしたり病人を焼き殺した点については、治安維持の観点から歴史家に肯定的にとらえられる事が多かった。
日本では「串刺し公」を意味するツェペシュと呼ばれる事が多く、また、「ドラキュラ」というニックネームで呼ばれる事も多い。
ただ、これらのニックネームは後年に勝手に作って呼んだものではなく、ヴラドの存命時からすでに使用されていた。
特にドラキュラ (正確には「Drakulya」) というニックネームを多く使用し、本人筆とされるサインも「Wladislaus Drakulya」と書かれており、ヴラド自身ドラキュラというのを好んでいたと思われる。
ドラキュラとはドラゴンの子供という意味で、ヴラドの父親が「Dracul」と呼ばれていた事に由来していた。
新約聖書では悪魔サタンは蛇、ドラゴンとして描かれる事が多く、その為、父親が「悪魔公」と解釈され、その流れでヴラドは「悪魔の子」と言われるようになった (これが後に吸血鬼ドラキュラ伯爵へと発展していった) 。
2012年、ルーマニアの観光キャンペーンのビデオ内で、イギリス王室のチャールズ皇太子がヴラドの子孫であると名乗っている。
《殺害数》
8万人以上
《犯行期間》
1459年?~1476年?
∽ 総評 ∽
「串刺し公」と呼ばれ、ドラキュラのモデルの1人とされるヴラド3世。
ヴラドはそのニックネームからも残虐で残酷な人物とされ、その悪名は現在も轟いている。
串刺し行為は実際に行っていたのは間違いないが、当時、串刺しという処刑方法は珍しいものではなく、重罪を犯した農民に頻繁に行われていた。
ただ、普通貴族に対しては行わない為、そういう点においてはヴラドはかなり特殊で残忍だとはいえる。
だが、ヴラドはあえて串刺しする事で自身の君主としての権威を周囲へ見せつけたと思われる。
正直、ヴラドが猟奇殺人者というのはかなり怪しいと思う。
時代が時代なので自分の立場を守る為に容赦ない殺戮というのは普通の事であり、時代と立場というのを考慮しなくてはならない。
個人的には当時の君主として多少はやり過ぎだったとしても普通の行動であったのではと思う。
コメント
コメント一覧 (10)
バルカンの田舎ですからね。
残酷すぎるくらいの統治をしなければ「モハメダン」(不適切)たちは侵略してこないとわかっていたのでしょう。
あと、「ロスケ」「オシ(ドイツ人のスラヴ圏での言い方)」(不適切)たちも。
ただ、あまりの残忍性に衝撃度は高かったと思います。
自浄作用が落ちに落ちにまくっていたり、文明云々を肯定する国では腐った政治家に対して何もできなかったけど、(日本は両方)こいつは図抜けてますから過激すぎるくらいのことができたのでしょう。
いや、しなければいけなかったのです。
ドブロジャ(南東部沿海地方)、ワラキア(南部)はバルカンの一部扱いされるし近いですからね。(その理屈ならティミショアラなどのバナト南西部はもろ近い)
侵略者や非国民たちを許さないためにも。
あえて残虐にしていた可能性はありますね。
ある意味過激過ぎるくらいの事をやらないとダメな事もあります。
小国ではこれくらいの事をやらないと国の存続は不可能だったのかもしれませんね。
日本語と同じアルタイ語族に分類されるようです。
(日本語・朝鮮語を含むかは定義による。
また、ウラルを含むウラル・アルタイ語族と定義される場合もある。)
寒い事で知られるサハ共和国とトルコでは、ほぼ同じ言葉が話されているそうです。
これは同じくシベリアに起源を持つとされるテュルク系民族の祖先が、
中央アジアを支配した結果、離れたトルコと北アジアで、
同じテュルク語が話されるようになったとの事です。
オスマン帝国は後の世界大戦で滅ぼされてしまうのですが、
もしこの時にヨーロッパを支配していれば、歴史が大きく変わり、
今の中東情勢も大きく変わっていたでしょう。
ところで、フランスの1日感染者が約18万人に達したとかで…。
オミクロン株の実行再生産数もデルタ株の数倍とかで、
アルファ株の時も感染力が強いと言われていましたが、天文学的な増え方ですね。
ワクチンにより、重症化率は抑えられる一方、症状が軽いまたは無症状だと、
また自覚症状のない人が感染を広げそうです。
単純な話、その場に人間がいなければ、他人に移す事はないですが、
移動を限りなくゼロにするとか、そこまでしないと感染が抑えられないですね。
田舎では移動する場所が限られているので、濃厚接触者の追跡は容易ですが、
都市部だと実際、追跡するような余裕もありませんでしたからね。
それは私も何かで知りました。
また、日本人の先祖は中国大陸から来たものだと信じられていましたが、遺伝子を調べると中国人や韓国人とは全く別である事が判明しています。
日本人の遺伝子は言語同様トルコ系の遺伝子と非常に酷似しているようですね。
エルトゥール号の遭難事故もありますが、トルコが世界一の親日国と言われるのはそういった所にあるのかもしれませんね。
ハンガリーはワラキアやアルバニアといった小国にオスマン帝国との戦いを押し付けてウラド公を英雄だ英雄だと讃えまくってたくせに掌返しで残虐な暴君だの吸血鬼だの難癖つけて裏切り者として捕まえたようですがよくもまぁそんなことが出来たもんだって思いましたね。
私もそうだと思いますね。
また、彼だけが行っていた処刑方法ではないので特に珍しいという事ではないですし。
ハンガリーも自国の体裁を守る為に嘘をついたのでしょうけど哀れですね。
確かに極悪人としては有名ですね。
今度調べてみます。
しかし、ド田舎のルーマニア、トランシルバニアを強国から懸命に守り通した名君でもあります。
彼の記事を見ていると元寇時代の防人や黒田官兵衛などを思い出しました。
串刺し伝説で名高いけど、この記事を冷静に見てみると自分もその生贄として身を挺しているのが伝わってきます。
保身ばかりして外国に我が地を売り渡す今の政治家と比べても実に気高く、勇ましいなと感じました。
串刺しも過激な戦い方もよっぽど売国奴が多かったと推察できます。
墺・洪多重帝国の肩代わりもしているし、充分にサポートをしているのに恩を仇で返してるプロパガンダ。
墺・洪帝国には恩はないのかと思いましたね。
自分たちを守ってくれたのに
確かに自らの命も投げ打っている感じはありますね。
過激なのもパフォーマンスの要素もありますし、誇張されている可能性もありますしね。