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エリザベート・バートリ (ハンガリー)
【 1560 ~ 1614 】



エリザベート・バートリ・ド・エクセド伯爵夫人は、1560年8月7日、ハンガリー王国ニールバートルで生まれた (ハンガリーは日本と同じく本来姓が前にくるが、当時はドイツ語が公用だった為、名→姓の順で表記するのが一般的) 。

バートリ家はトランシルヴァニア公国の中で最も有力な貴族で、代々ニールバートルに土地を所有していた。

父親のバロン・ジョージ6世・バートリ男爵はトランシルヴァニア公国の君主の弟で、母親はトランシルヴァニアの貴族ステファン・バートリの娘バロネス・アンナ・バートリであった。

エリザベートは幼少期をエクセド城で過ごし、富と教育や社会的地位に恵まれた環境で育った。

子供の頃、エリザベートはてんかんによって引き起こされた可能性のある複数の発作に苦しんだ。

当時、てんかんは発作を起こしていない人の血をてんかん患者の唇に塗ったり、発作が終わった時に同じく発作を起こしていない人の血と頭蓋骨の破片を混ぜたものをてんかん患者に与えるという治療が行われていた。

後年のエリザベートの残酷さを説明する為のいくつかの情報源によると、エリザベートは家族から残酷になるよう訓練されていたとされており、幼いエリザベートが家族が実行する残酷な罰を目撃した事や、悪魔主義や魔術を教えられたとされている (ただしこれらは確たる根拠はない) 。

エリザベートはカルヴァン派のプロテスタントとして育ち、ラテン語、ドイツ語、ハンガリー語、ギリシャ語を学んだ。

エリザベートは最初の結婚をする前の13歳の時に子供を産んだ。

父親は農民の少年とされ、生まれた子供はバートリ家が信頼する地元の女性に渡された。

その女性には報酬が支払われ、子供はワラキアに連れて行かれた (ただこの妊娠についてはエリザベートの死後かなり経過してから農民たちに広がり始めた噂であり、実際に子供を産んだかについて現在も真偽が議論されている) 。


1573年、エリザベートはナーダシュディ家のフェレンツ・ナーダシュディ伯爵と婚約した。

しかし、この婚約は貴族界での政治的な取り決めであった。


1575年5月8日、エリザベートはナーダシュディと結婚した。

ナーダシュディがエリザベートに結婚祝いとして送ったのはカルパチア山脈に位置するチェイテ城であった。

また、隣接する17の村も一緒に譲渡した。


1578年、ナーダシュディはハンガリー軍の最高司令官となり、オスマン・トルコとの戦争を指揮した。

夫が戦争に赴いている間、エリザベートは業務や領地の管理を行った。

長征の際には医療を提供し、ウィーンへのルート上にある夫の領地の防衛を任せられた。

ただ、攻撃の脅威は大きく、常に危険にさらされる緊張感が続いた。

エリザベートは5人の子供を産んだが、長女のアンナはニコラ6世・ズリンスキーの妻となり、次女オルシカはイシュトヴァーン2世の妻となっている。


1604年1月4日、夫のナーダシュディが48歳で死亡する。

死因は不明だが、1601年に病気を発症したとされ、足の衰弱と痛みを訴えていた。

ナーダシュディは死ぬ前に相続人と未亡人をジョルジ・トゥルゾーに託していた。

実はナーダシュディが戦争に出掛けている1602年から1604年にかけてエリザベートの残虐行為の噂が王国中に広がっていた。

ルター派のイシュトヴァーン・マギヤリがウィーンの宮廷で公然とエリザベートを訴えた。


1610年、マティアス2世はトゥルゾーに調査を命じ、トゥルゾーは同年3月にアンドラーシュ・ケレシュトゥリーとモーゼス・チラキーという2人の公証人に証拠集めを命じた。

そして、同年10月までに52人の目撃者の証言を集め、その後、300人以上となった。

証言によるとエリザベートの最初の犠牲者は10歳から14歳の少女たちであった。

エリザベートは宮廷の礼儀作法を学ぶ為に親に連れて来られた小貴族の少女たちを殺し始めたとされる。

目撃者の中には死体に拷問の跡があり、2人の宮廷関係者はエリザベートが召し使いの若い娘を拷問して殺害するのを目撃したと主張した。

その後、領内の農奴の娘を誘拐して殺害した。

そもそもエリザベートが殺人を始めた理由は、夫が戦争に行っている間、多くの愛人を持ち、若さや美しさを保つ為であった。

侍女を折檻した際 (折檻は夫のナーダシュディから教わったともいわれる) 、たまたまエリザベートの手の甲に血がつき、それを拭き取った所肌が綺麗になったように見えた。

それから「処女の血が美しくする」という妄想に取り憑かれ、血を渇望するようになった。

そこでエリザベートが行ったのが拷問器具である「鉄の処女」で、中に備え付けられている無数の棘により血を効率よく抽出するとそれを全身に浴びた。

また、エリザベートはサディストであり、指を切断したり皮膚を切り裂いて苦痛の表情を浮かべる犠牲者を見て悦に入った。


同年12月12日、ズリンスキーとトゥルゾーの間でエリザベートの投獄と、財産を分配を合意し、同年12月30日、トゥルゾーはチェイテ城へ行きエリザベートと共犯者とされる4人の召し使いを逮捕した (逮捕時、拷問している最中でエリザベートは血まみれであったといわれるが、これは後に広まったフィクションとされる) 。

トゥルゾーが妻に宛てた手紙によると、死んだ少女1人と、拷問されたがかろうじて生きている少女1人を見つけたという (ただし生き残った少女に話した証拠は残っていない) 。

ただ、目撃者のほとんどは他人から聞いたもので、自分で見た者はほとんどいなかった。

使用人たちは実際に拷問されたと告白していたが、正直、事実かどうか信用できなかった。


1611年1月2日に1回目が、同年1月7日に2回目の裁判が行われた。

共犯者の証言によるエリザベートの犠牲者数は650人で、この数はヤカブ・シルヴァシーがエリザベートの私的な書物を読んだ事に由来した。

ただ、この書物は明らかにされず、ヤカブ自身も証言の中で書物の事を言及していなかった。

結局、裁判で正式に認定された殺害は80人で、ハンガリー王の手紙によると300人であった。

そして、エリザベートの身分により死刑は回避され、チェイテ城の寝室に1日1回の食事が与えられる小窓以外、扉や窓を塞がれた部屋に生涯幽閉される事となった。


1614年8月、エリザベートは土地や財産、遺産を子供たちに分配するという取り決めに署名した。


同年8月20日夜、エリザベートは自身の手が冷たい事を護衛に訴えた。

護衛は
「何でもないですよ奥様」
と答え続けて
「横になって下さい」
と述べた。

そして、翌日、護衛が死んでいるエリザベートを発見した。

享年54歳。


同年11月25日、エリザベートの遺体はチェイテ教会に埋葬される事となったが、地元の村人の反発にあい、生まれ故郷のエクセドに移された。

バートリ家の地下室に埋葬されたという情報もあり、現在も遺体の所在についてはわかっていない。

現在、エリザベートは最も殺害した女性殺人者としてギネスに登録されているが、犠牲者数については異論がある。

また、数名の著者はエリザベートを陰謀の犠牲者とし、誰も殺害していないと主張する人物もいる。

エリザベートに対する訴訟は主に政治的動機によるものであり、夫の死後にエスカレートしていった富と広大な土地の所有が原因である可能性が高いと主張している (この説は当時のハンガリーの歴史と一致している) 。

目撃者の多くが他人から聞いたものであり、物的証拠は過度に誇張され、トゥルゾーが自らの失敗で死傷した患者をエリザベートの犠牲者にして誤魔化したと主張した。

エリザベートの犯行は18世紀にはすでに伝説となっており、多くの作品が作られていった。


1989年、作家のマイケル・ファーリンは、エリザベートの告発は300人以上の証言によって裏付けられていると述べた。

現在、処女の血を浴びた事や吸血鬼のような傾向を示す伝説は、エリザベートの死後何年も経ってから記録されたものであり、信憑性は低いと考えられている。

エリザベートは小説家ブラム・ストーカーが書いた『ドラキュラ』に影響を与えたといわれているが、それを裏付ける証拠はない。



《殺人数》
80人~650人 (諸説あり)

《犯行期間》
1590年~1610年



∽ 総評 ∽

『The Blood Countess (血の伯爵夫人) 』または『Countess Dracula (ドラキュラ伯爵夫人) 』と呼ばれ、自身の美貌を保つ為だけに650人もの処女を殺害したとされるエリザベート。

それはギネスも認める程であり、一応、現在は個人で最も殺した女性連続殺人犯である。

今や伝説となった存在であり、この手の話を好む人にとっては知らない人はいないだろう。

ただ、今から400年以上昔の話であり、正直かなり怪しい。

普通600人以上も殺すというのは考え難いが、時代を考えれば確かにあり得ない話ではない。

同世代の他の殺人鬼も何十人、何百人と殺害している人物が多い。

個人的には話半分くらいで理解しておくのがいいのではと思う。



* 追記 *

今日までの1ヶ月間、「中世・近世」の殺人鬼を紹介してきました。

また、バートリが今年最後の記事となりました。

今年1年ありがとうございました、来年もよろしくお願い致します。