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マンフレート・ヴィットマン (ドイツ)
【 1943 ~      】



マンフレート・ヴィットマンは、1943年、ドイツ (当時はナチス・ドイツ)・バイエルン州カルテンブルンで生まれた。

父親は酪農家で母親は主婦であり、ヴィットマンは7人兄弟の5番目であった。

ヴィットマンは建具職人の見習いとなるが挫折し、代わりに鉱山でアスファルトミキサーとして働いた。

ヴィットマンは目立たない内気な性格であったが、子供の頃に豚の屠殺現場を目撃して以来、ナイフで女性をできるだけ長く拷問し、最終的に首を刺して殺害するという暴力的な殺人妄想を抱くようになる。


1959年12月25日、ヴィットマンは映画館の帰り道に姉の同僚イルムガルト・フェーダー (19歳♀) を見かける。

ヴィットマンは急いで家に戻って武装すると、近道を通ってフェーダーを待ち伏せした。

そして、フェーダーがやって来ると頭を何度も殴った。

その後、フェーダーの服を脱がせ、包丁で首を切った。

ヴィットマンはフェーダーが死んだと思ったが生きており、死んだ振りをしていた。

フェーダーは重傷を負ったものの一命を取り留め、警察に事情を説明するが、犯人については上手く説明する事が出来なかった。

ただ、顔の傷を覚えており、ヴィットマンの顔にあった傷と似ている事から犯人ではないかと噂が流れ、住民から警察にヴィットマンを調べるよう要請が入った。

しかし、警察はヴィットマンを調べる事はなかった。

ヴィットマンは実際の血を見て驚いてしまい、その後、数年間は殺人妄想を追及しようとしなかった。


しかし、1968年12月、ノラ・ウェンツル (14歳♀) を殺害すると、1969年8月と11月にそれぞれジークリンデ・ヒュプナー (16歳♀) とヘルガ・ルター (16歳♀) を残酷な方法で殺害する。

凶器はポケットナイフであり、バイエルンでは「スティレット」と呼ばれる標準的なものであった。

間もなくヴィットマンは逮捕され、3件の殺人で起訴された。


1971年11月7日、コーブルクのアサイズ裁判所で裁判が始まる。

その犯行は世間から「獣のようなもの」と見なされた為、ヴィットマンはリンチされそうになった。

また、ヴィットマンには死刑を求めるデモや要求が行われた (だが西ドイツはすでに死刑を廃止している) 。

ヴィットマンは精神の異常な兆候はあるものの、心身ともに健康だと判断された。

専門家はヴィットマンを
「サディスティックな特徴を持つ変態的な性的発達であり、定期的な憎悪に絶望しながら時間の経過と共に緊急性を増す中毒性のある病的な本能的脱線」
であり、責任能力が低いと説明した。


同年12月15日、ヴィットマンには3つの終身刑が言い渡された。

ヴィットマンはシュトラウビング刑務所に収監される。


2011年12月末、刑執行室はヴィットマンが非常に弱っていた為、条件付きの釈放を決める。

査察官や検察官とは対照的に、刑務所長はヴィットマンの釈放に批判的であった。


2013年、43年間の獄中生活を終え、ヴィットマンは釈放された。

釈放後、ヴィットマンはバイエルン州の無名の老人ホームに入り現在に至っている。



《殺人数》
3人 (他1人重傷)

《犯行期間》
1968年12月~1969年11月



∽ 総評 ∽

『The Staffelstein Killer (シュタッフェルシュタインの殺人者) 』または『The Beast of Oberfranken (オーバーフランケンの獣) 』と呼ばれ、3人の少女を残酷に殺害したヴィットマン。

ヴィットマンは子供の頃に屠殺を目撃し、異常性が開花したが、そういう鬼畜は少なくない。

ヴィットマンは元々異常性を秘めており、たまたま屠殺によって目覚めたが、他の要因でも目覚めた可能性は高い。

最初の犯行はわずか16歳であったが、その時のショックでその後9年間犯行に至らなかった。

9年後に何かきっかけがあったのか、その間にも実際は犯行に及んでいたのかわからないが、その犯行は残忍極まりないものであった。

ヴィットマンは弱っている事を理由に43年後に釈放された。

老人ホームに入れられた事から実際に弱っていたのだろうが、この鬼畜を生かす為に一体いくらの税金が使われたのだろうか。