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フローレンス・レイ (フランス)
【 1975 ~      】



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オードリー・モーピン (フランス)
【 1972 ~ 1994 】



フローレンス・レイ (1975年8月27日生) の父親は学校の先生であった。

レイは医大を中退した後、文学を学んでいた。


オードリー・モーピン (1972年4月20日生) は、ナンテール大学の哲学科に通う学生であった。

レイとモーピンはナンテールにある廃墟となった資産家の家に無断で2人で居座っていた。

2人は地下政治組織に所属しており、その為、フランス諜報機関の監視下に置かれていた。


1994年10月4日午後9時25分、パリのポルト・ド・パンタンにあるカーポンド (車を保管している場所) で、レイとモーピンは夜間勤務中の警察官2人を襲撃する。

2人は警察官から銃を奪い手錠で拘束しようとするが、警察官は手錠を持っていなかった為、催涙ガスを吹きかけ逃走した。

2人は赤信号で待っているタクシーに乗り込むが、タクシーにはすでに先客が乗っていた。

2人は運転手のアマドゥ・ディアロ () と乗客のジョルジョ・モニエ () を脅し、ナシオン広場に向かうよう命じた。

タクシーに乗ってから10分後、ナシオン広場の端に到着すると、ディアロは3人の警察官がパトロールを終えて戻って来るパトカーに気づいた。

わざと事故を起こそうとディアロは赤信号を無視してパトカーに激突した。

3人の警察官が飛び出すと、レイとモーピンは発砲を行い、ローラン・ジェラード () とティエリー・メナード () が死亡し、3人目の警察官が負傷した。

負傷しながらも警察官は2人と銃撃戦を展開し、その最中、モーピンはディアロを射殺し、モニエはタクシーから離れて地面に伏せて助かった。

その後、2人はジャッキー・ベンジモンが運転する車をカージャックし、ヴィンセンヌの森まで運転するよう命じた。

2人が乗る車を白バイのパトロール隊員ガイ・ヤコブ () が追走し、モーピンが後部窓からヤコブに向かって発砲した。

ヤコブは地面に倒れ軽傷を負った。

ヴィンセンヌに到着すると道路はすでに封鎖されており、モーピンはベンジモンに止まらず突き進むよう命じ、止まれば殺すと脅した。

すると、ベンジモンは100メートル手前でハンドブレーキを目一杯引き、それにより車は3回スピンした。

これによりベンジモンは外に投げ出されたが、この事で命拾いした。

現場に先程発砲されたヤコブが歩いて到着するが、モーピンがヤコブを撃って射殺した。

警察は車に発砲し、銃弾がモーピンに命中し致命傷を負った。

レイは降伏し逮捕されるが、病院に運ばれるモーピンにキスをした。

逮捕されたレイは取り調べが行われるが、事件の事は一切話さなかった。

モーピンはビセートル病院に搬送されるが、翌日の夜10時に死亡した。

事件後、警察がレイ達が居住していた廃墟を捜索すると、映画作家ギー・ドゥボールの「スペクタクルの社会」や無政府主義的な文献が発見された。

また、シュルレアリスム (文芸・芸術運動) 、ラディカリズム (急進主義) 、シチュアシオニズム (状況主義) に通じる2人の文章が発見された。

レイは裁判を待つ間、読書やドラマを観る事に時間を費やした。

レイは弁護士を含め誰にも事件の事を話さなかった。


1998年9月17日、パリのパレ・ド・ジャスティスにあるアシス裁判所で裁判が始まった。

レイの弁護はオリビア・クリグマンとアンリ・ルクレールの2人の弁護士が行った。

裁判の間、レイは感情を表に一切出さず、それはクリグマンに叱責される程であった。

10人の証人が呼ばれるが、全員が異なる証言を行い、何が正しいのかわからなかった。

その為、レイは殺人者なのか共犯者なのかはっきりせず、モーピンが全ての発砲を行った事を証明する弾道テストに今後の裁判の行方がかかっていた。

フランス国民は事件の余りの凄惨さに激怒し、それは死刑の復活を求める声が多く届けられる程であった。


同年9月30日、検察官はレイに懲役30年を求刑した。

弁護団が弁論を終えた後、レイに最後の発言を発する機会が与えられた。

だが、レイは沈黙を選び、結局レイは裁判の間、何も話さなかった。

5時間の審議の後、陪審員はレイを共犯者として有罪とし、20年の禁錮刑を言い渡した。

レイとモーピンに銃を提供したアブデルハキム・デクハーは懲役4年を言い渡された (しかし判決前に多くの刑期を終えていた為、すぐに釈放されている。また、後にデクハーは2013年11月20日にパリで発生した同時多発テロ事件の容疑者として逮捕されている) 。


2009年5月3日、レイは刑を免除となり釈放された (約10年刑務所にいた) 。

刑務所に収容されていた時、母親が頻繁に面会に訪れ、歴史や地理を学んだ。

また、レイは刑務所内の食堂でウェイトレスとして働いていた事もあった。

この事件は多くの分野に影響を与え、著作家のパトリック・ベッソンは「Sonnet pour Florence Rey」というタイトルの本を書き、バンドのThe Killsもレイに捧げた曲を書き、ロックグループ、チャンバワンバは事件後直後のライブで「Stitch That」という曲をレイに捧げるなど、レイはカウンターカルチャー (対抗文化) の象徴となった。

また、アーティストのシャンタル・モンテリエは、事件の公式説明に異議を唱える為にコミックブック「Les Damnes de Nanterre」をを執筆し、イラストを描いた。

モンテリエはレイにインタビューを申し入れたが拒否されている。



《殺人数》
4人 (他負傷者5人)

《犯行期間》
1994年10月4日



∽ 総評 ∽

レイの犯行は後にカウンターカルチャーの象徴として歌手や作家から支持され様々な媒体で扱われた。

アメリカのボニーとクライドもそうだが、ヨーロッパでもそういった事がよくある。

ただ、冷静に考えればただの犯罪者であり、それ以上でもそれ以下でもない。

特にこの2人は別に国家権力にはじめから対抗しようとしたわけでもなく、たまたま逮捕にきた警察官を殺害したに過ぎない。

これが一般市民を一切巻き込まず、警察や政治家等の国家権力者ばかりを標的としたのならまだわかる。

レイはすでに釈放されており、おそらく自分が世間にどのように扱われているのか理解しているであろう。

カウンターカルチャーの象徴として、釈放後にメディアに露出し、本等を出版していたらはらわたが煮えくり返っている所だが、当の本人は裁判でも一切事件について語らず、また、インタビューを拒否したりしているのでそこはまだましといえる。