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エルシャド・シクデル (バングラデシュ)
【 ? ~ 2004 



エルシャド・シクデルは、バングラデシュ・ナルキティ・ウパジラのマダルゴーナ村で生まれた (生年月日は不明) 。

父親をバンデ・アリといい、1966年から1967年にかけてクルナ地区に移動した。

クルナでシクデルは鉄道員として働いていた。

そこからシクデルは次第に鉄道沿線で強盗するようになり、そして、地元のギャングの一員となった。

その後、シクデルは自らギャングを結成し、地元の人からは「Ranga Chora (ランガ・チョーラ) 」という名前で呼ばれていた。


シクデルは1973年に最初の結婚をすると、その後、合計6回結婚し、子供も5人生まれた。

また、その中の1人はシクデルに虐待されたと後に主張した。


シクデルは1976年から1977年にかけて「Ramada Bahini」という別のギャングを結成し、クルナ駅やガート地区で窃盗や強盗、テロ活動を行った。

シクデルはギャングメンバーと一緒にガート地区第4、第5エリアを占領し独占した。


1982年、フセイン・ムハンマド・エルシャドが台頭すると、シクデルはジャティヤ党を通じて政界入りした。

シクデルは政治家になると権力の拡大に力を注いだ。


1984年から1986年にかけて、クルナの財産の占有、私有地の占拠、麻薬取引、恐喝などの犯罪行為に手を染めた。


1988年、軍事政権下の選挙で、シクデルは第8区の長官に選出された。


1991年、BNP政権 (バングラデシュ民族主義党政権) が成立すると、シクデルはBNPに参加した。

また、この年にシクデルは製氷工場のオーナーを第4ガート地区から追い出し、製氷工場を占拠すると全ての商人に氷を買わせた。

ただ、この製氷工場は拷問場として使用していた。


1996年12月26日、シクデルはアワミ連盟という政党に鞍替えしたが、批判を受けすぐ除名された。


1999年、シクデルは協力者のラジャサクシ・ヌレ・アラムと共に逮捕され、60件以上の殺人で起訴された。

アラムは法廷で24件の殺人について供述し、シクデルについては70人以上犠牲者がいると主張した。

下級裁判所での裁判ではシクデルは7件の殺人で死刑判決と、4件の終身刑の判決を受けた。


2004年5月10日、クルナ中央刑務所で死刑が執行された。

アブドゥス・サッター・モハンタンが、「I will be dead (私は死ぬ) 」というタイトルの曲を書いているが、この曲はシクデルの事を書いた曲として全国的に普及している。



《殺人数》
60人以上 (70人以上の可能性あり)

《犯行期間》
1991年~1999年



∽ 総評 ∽

シクデルはギャングのボスであり、政治家であり殺人鬼という異色の存在であった。

殺人については誰をいつどのように殺害したか詳細がなく、60人以上殺害したという事実のみが存在した。

ギャングのボスであったシクデルなので、ライバルギャングやただの犯罪で殺人を繰り返したのだろう。

そもそもギャングが政治家になれるというバングラデシュの政権にも問題あるが、シリアルキラーとしてはかなり特殊である。

殺人はギャングとしての行為であると思われるが、殺人繰り返している時に普通に政治家として居座っていると思うと恐ろしくてならない。