_20210724_140925
ピロスカ・ヤンチョー (ハンガリー)
【 1934 ~ 1954 】



ピロスカ・ヤンチョー=ロダーニ (出生名ピロスカ・マリア=ロダーニ) は、1934年1月15日、ハンガリー・テレクセントミクローシュで生まれた。

ピロスカの母親はボルバラといい、16人兄弟であったがその内12人は乳幼期に死亡し、2人は後に自殺した。

ボルバラは16歳で絶望的な経済状況の為に性的サービスを提供し始めた。

この結果、ボルバラは異なる4人の男性との間に5人の子供を産んだ。

その1人がピロスカであり、父親をギュラ・ロダーニといった。

異母兄弟のヨシフの父親はユダヤ人商人リポート・ワイズといい、ギュラとワイズは父子関係を認めなかった。


しかし、1949年、ボルバラが2人に圧力をかけると600フォリントの慰謝料を払わせ、2度と子供達に関わらないと約束させた。

ワイズは強制収容所に送還されそのまま死亡した為、ヨシフが財産を相続する事となり、一家は建物を与えられた。

この建物は地元の村人たちから売春宿とみなされていた。

というのもボルバラとピロスカのもとには性的欲求を満たす為男たちがよく訪れ、行為の対価として現金やパン、獣脂等を支払った。

この時、ピロスカはまだ14歳であり、自由時間には周囲をぶらぶらして酒を飲み盗みを行った。

ピロスカはいくつか真っ当な仕事に就くがすぐに辞めた。

ある精神科医によると、ピロスカは同級生と比べて平均以上の知能指数を持ち、詩を書き流暢なロシア語を話したという。

また、人体解剖学に関する本や小説を好んで読んだ。


1952年までにピロスカは窃盗の罪で起訴され、また、いくつかの都市で犯罪を犯し逮捕された。

また、ピロスカは少なくとも3度の性病の治療を受けている。


1953年10月13日、ピロスカはマリカ・コマロミ (11歳♀) を自宅の農家に誘い込んだ。

実はピロスカはコマロミと数ヶ月前に出会っており、この日、野菜店の前でコマロミと2度出会い、コマロミはフライドポテトの列に並んでいた。

ピロスカはコマロミを家に連れ込む事に決め、「もっとある」と話して誘った。

家に着くとピロスカはコマロミに小説を渡し、コマロミが読んでいる間に背後から電線で首を絞めて殺害した。

殺害後、コマロミの服を脱がせ毛布で覆い、首に縄を結び家から引きずり出し、家のポーチの板金で覆われた井戸に遺体を捨てた (後にピロスカが警察に尋問を受けた時にコマロミの靴を履いていた) 。


1954年6月9日、ピロスカはテレクセントミクローシュの市場で鶏肉を販売していたピロスカ・ホーパル (13歳♀) と出会う。

機会をみてホーパルを家の農家に誘い込み、気を逸らす為にコマロミ同様本を与えた。

そして、ホーパルが本を読んでいる間、ピロスカはワイヤーで首を絞めて殺害した。

その後、死んだホーパルの性器を舐め、自身の性器には人参を刺してオーガズムに達した。

それからホウキの柄をホーパルの性器に差し込んで深さを測り、死体にしがみついたままホーパルの突き出た舌に自身の性器を擦り付けて再びオーガズムに達した。

その後、ホーパルが持つ200フォリントを奪い、遺体を井戸に投げ入れた。


ピロスカは首都ブダペストから来た工場労働者イレーン・シモン (17歳♀) と知り合い、同年8月9日に家の農家に誘い込んだ。

実はシモンもレズビアンであり、2人は以前から親密な関係を築いていた。

家に誘い込んだピロスカはシモンの首を電線で絞めて殺害した。

ピロスカはシモンの服を脱がせるが、性病にかかっている事に気付き、死体と性行為する事を止めた。

死体を井戸に捨てた後、服のポケットから30フォリントを奪った。

シモンを殺害した理由は、親密な関係を他の人に知られる事を恐れたからだった。


同年8月11日、ピロスカはテレクセントミクローシュ公営住宅の前のバス停で、マリカ・ボトス (12歳♀) と出会う。

ボトスは休暇でテレクセントミクローシュを訪れており、ピロスカは荷物を運ぶのを手伝うと話した。

そして、言葉巧みにボトスを農家に誘い込み、綿の紐でボトスの首を絞めて殺害した。

その後、ボトスの服を脱がせ裸にすると、その体で性的衝動を満たした。

すべてを終えた後、ボトスの遺体を井戸の中に投げ捨てた。

最後にボトスの服を捨て、所持していた数フォリントを奪った。


同年8月14日、ピロスカは駅の近くでカトーカ・スーケ (13歳♀) に近づき、荷物を運ぶのを手伝った事を名目に農家に誘い入れた。

そして、スーケに本を渡し読ませると、背後からズボンのストラップで首を絞めて殺害した。

その後、死体の服を脱がせ性行為を行い満足すると、遺体を切断した。

切断した後に井戸に部位を投げ捨て、スーケの服と靴を市場で売り15~20フォリントを手にした。

この頃には地元の人々はパニックに陥っており、小さな子供を持つ親は子供だけで外に出さないようになっていた。

ソルノク警察はソビエトによる拉致ではないかと考え、まともな捜査を行わなかった。

失踪中もパトロールを派遣せず、両親に失踪した子供の写真を求めず、スピーカー付きの車で町を走り回り犠牲者の説明をするだけだった。

ただ、警察が真剣に捜査しないのも理由があり、1954年2月2日にアルバート・ケニエール、同年6月21日にイムレ・ヴィーという2人の10代の少年が行方不明となっていたのだが、後にその2人は家出である事が判明していた。

このように少年少女の家出が当時頻繁に起こっていた。

住民は部外者、特に街を通過するジプシー (移動型民族) や運転手に対してますます疑問を抱き、不甲斐ない警察に対して1000人以上の住民が警察署の前で抗議し、犯人逮捕を強く要求した。

地元のユダヤ人が「彼らの血を使ってシナゴーグを再建する」為に子供たちを誘拐しているのではという噂も流れた。


ピロスカはイシュトヴァーン・バラージュ (21歳♀) とソルノクのアルクシ駅で出会い、翌日の同年9月2日、バラージュはスーツケースをピロスカの仲間に奪われた為、警察に通報した。

しかし、ピロスカは同行を条件にスーツケースを返す事を約束した為、警察への苦情を取り下げた。

家に到着するとピロスカはバラージュにブランデーを飲ませた。

バラージュは眠くなり庭で眠りについた。

その日の夕方、ピロスカが首をワイヤーで絞めようとした時にバラージュは目を覚ました。

バラージュは激しく抵抗し、格闘の末ピロスカから逃げる事に成功し、警察署で働いている友人にその事を話した。

その友人は同僚の2人と一緒に尋問の為にピロスカを警察署に連行した。

しかし、ピロスカは犯行を否定した為、警察はバラージュの盗まれた服を探しに農家に向かった。

そして、農家を探索すると、ここ数ヶ月で行方不明となっていた少女たちの服を見つける。

ただ、バラージュの服は見つける事は出来なかった。

警官の1人が門の後ろのポーチに金属製のカバーが付いた坑道を見つけ、それを開けると深さ10~12mはある井戸を見つけた。

井戸を覗くと、人間の遺体が水と泥で覆われていた。

少女が座った状態で完全に裸であり、切断された顔の半分が水面から出ていた。

その後、消防士の救援により全ての遺体を取り除いたが、数時間かかった。

行方不明であった少女たちの発見は、ハンガリー政府に衝撃を与え、軍や警察の上級将校、大臣でさえも現場を訪れる程であった。

一緒に住んでいた母親のボルバラも犯行に加担したと考え拘留された。

犠牲者の数については住民の中で多くの噂が囁かれ、テレクセントミクローシュ周辺だけではなく、他の地域の少女や最近トウモロコシ畑で誘拐され殺害された少年も犠牲者ではないかとされた。

遺体は5つの木箱に入れられソルノクに輸送されたが、分解による悪臭が地域に広がり、後に塩化物を噴霧しなければならない程であった。

検死官に遺体が渡されるが、非常に状態が悪く、身元を確認する事すら困難であった。

また、ピロスカはホウキの柄で少女たちを犯した為、少女たちが処女であったかどうか判断するのは更に困難であった。

犠牲者の家族は自分の子供だと認識出来なかった為、遺体の返還を拒否した (遺体はまとめてクールシ墓地に埋葬された) 。

ピロスカはこれまでの犯行について告白したが、サンドル・フェケテとソ連兵2人の男性の共犯者がいたと主張した。

しかし、警察が調べると、この2人はピロスカが犯行に及んでいた時に テレクセントミクローシュにいない事が判明した。


同年9月29日、ピロスカは5件の殺人と1件の殺人未遂などにより死刑が言い渡された。

ボルバラには2年6ヶ月の禁錮刑が言い渡された。


同年10月14日、ピロスカは上訴し、弁護士はピロスカはまだ若く、幼い頃、通りで育てられた不幸な生い立ちを主張し、酌量を求めた。

また、ピロスカは犯行は母親ボルバラの存在が大きいと主張し、

「母は私の行動について知っていました。母親は私に出来れば良い服を着ていた少女を連れて来るよう言いました。私はお金が必要で性的欲求を満たしたかったので従いました」

と述べ、更に

「母はまた少女たちを縛る為の紐を私に渡しました。ただ犠牲者の服を売ったりお金を奪っても母は男や飲み物、食べ物に費やしてしまった。」

と述べた。

裁判所はピロスカが殺人を犯し、遺体を動かすに1人では難しいと考え、ピロスカが母親を共犯者とした主張はもっともらしいと判断した。

この証言の結果、ボルバラは判決が変更され死刑が言い渡された。

しかし、後に大統領評議会で減刑が認められ、死刑から終身刑へと変更されたが、ピロスカの死刑判決は変わらなかった。


同年12月12日午前10時11分、ソルノク刑務所の中庭で、絞首刑による死刑が執行された。

享年20歳。

医師の報告によると、ピロスカは10時22分には心臓の鼓動が止まり、30分後に絞首台から遺体が取り除かれた。

余談だが、母親のボルバラは1960年代後半に刑務所で病死している。

ピロスカはハンガリーの犯罪史上最も悪名高き陰湿な殺人者の1人とされている。



《殺人数》
5人 (他1人未遂)

《犯行期間》
1953年10月13日~1954年8月14日



∽ 総評 ∽

ピロスカはハンガリーの犯罪史上最悪の殺人者の1人とされているが、まさにその名に恥じぬ異常振りであった。

女性の連続殺人というのは、金銭を求めたものか怨恨や怒りによるものがほとんどであり、快楽による犯行というのはまずない。

しかし、ピロスカは性的欲求の為に殺人を繰り返しており (お金も目的ではあるが) 、これは非常に珍しい。

しかも、相手は男性ではなく少女で、生きている相手でもなく、死体を凌辱して快楽を求めるという異常振りであった。

それをわずか20歳の女性がやってのけたのである。

ピロスカが酷いのは当然だが、それに匹敵するくらい警察もまた酷い。

いくら家出する少女が多かったとしても捜査をするのは当然である。

「シリアルキラーの暗躍に警察の堕落あり」という言葉を今思いついたが、シリアルキラーたちが殺人を繰り返している時に必ずと言っていいほど警察や司法の怠慢が見られる。

ただ、警察云々抜きにしてもピロスカの犯行は異様の一言であり、女性シリアルキラーの歴史的にみてもピロスカはかなり特殊で異形の存在といえる。