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劉 昱 (リィゥ・ユー 中国)
【 463 ~ 477 】



劉昱 (字は徳融) は、463年3月1日 (大明7年1月26日) 、宋の湘東王劉彧 (後の6代皇帝明帝) の長男として生まれた。


466年10月、劉昱はわずか3歳で皇太子に立てられた。


472年5月11日 (泰豫元年4月18日) 、劉彧の死去に伴いわずか9歳で7代皇帝に即位した。


474年、桂陽王劉休範が、476年、建平王劉景素がそれぞれ反乱を起こすが、どちらも簫道成 (後の南斉初代皇帝) が鎮圧する。


477年8月1日 (元徽5年7月7日) 、簫道成によって殺害された。

享年14歳。

後に劉昱は帝位から落とされ廃帝となった (同じく廃帝となった5代皇帝劉子業と区別する為に後廃帝と呼ばれる) 。

わずか14歳で殺された劉昱だが、幼い頃から残虐な性格であり、命令に従わない者を殴り容赦なく殺した。

皇帝になってからは更に残虐性が増し、3度の飯より殺人を好んだ。

金槌や鋸といった凶器を好み、毎日街に出ては手当たり次第に人を殺した。

その為、街の住民は恐れ外に出歩かなくなり、人を殺せないと機嫌が悪くなった。

ある時、ニンニクばかり食べている将軍がいる事を知り、その将軍のお腹の中はニンニク臭いのか調べる為に腹部を割いて殺害し、たまたま通りかかった妊婦のお腹を切り裂こうとした。

また、強盗に憧れ、部下数人と街1番の富豪の家に押し入り住人を殺害した。

ある日、簫道成の見事な太鼓腹を見て、

「その腹に矢を射させろ」

と的にして殺そうとした。

これは家臣たちが必死に止めた為、事なきを得た。

その残虐性が抜きん出ていた劉昱だが、まだ幼く子供であった為、街で子供たちが遊んでいると、その中に入って一緒に遊ぶという子供らしい姿も見せている。



《虐殺数》
不明

《在位期間》
472年5月11日~477年8月1日



∽ 総評 ∽

あまりの残虐振りから中国の史書には『天性好殺 (生まれながらにして殺人を好む) 』と記されている劉昱。

劉昱による正確な殺害数は不明だが、殺人を行わない日がないくらいだったようなので、仮に即位から毎日1人殺したとしたら2000人近く殺している事になる。

しかも、即位する前から殺人を行っていたとなると少なくとも9歳から殺人をしており、「バルガー事件」のジョン・ヴェナブルス&ロバート・トンプソンよりも若い。

この話が全て事実ならこれ程恐ろしい事はない。

まさに「生まれながらにして殺人を好む」鬼畜である。

ただ、中国史上屈指の暴君とされている劉昱だが、後に即位する簫道成による政権簒奪を正当化する為に、残虐振りが誇張されているともいわれている。

また、簫道成が殺されかけた事による個人的恨みにより過度に残虐性が強調されている可能性も否定出来ず、それらの事を考慮する必要がある。