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ホスニー・ムバーラク (エジプト)
【 1928 ~ 2020 】



ムハンマド・ホスニー・ムバーラクは、1928年5月4日、エジプト・ミヌーフィーヤ県カフル・エル・ムスリフで生まれた。

父親は小さな地主で県の法務局で働いていた。

父親はムバーラクに大学へ進学して欲しかったが、1948年に第一次中東戦争が起こると、ムバーラクは軍人を目指すようになる。

エジプト政府は有能な人材を集める為にあらゆる階層から軍人を募った。


1949年、士官学校を卒業したムバーラクは、戦闘機のパイロットとして1956年、第二次中東戦争に従軍した。


1959年、爆撃機の飛行隊長に任命されると数年後には旅団長に昇進した。


1962年、北イエメン内戦が勃発すると、ムバーラクは派遣部隊に編入され、戦闘に参加した。

ムバーラクはソ連で飛行機の操縦や将校としての教育を受けた。


1967年、第三次中東戦争でエジプト空軍が事実上崩壊すると、戦後、ムバーラクはカリュービーヤ県ビルベイスの軍大学校長に任命された。

ムバーラクはパイロットの増員、訓練期間の短縮 (4年から2年) という課題を見事にクリアし、当時の大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルに認められ、1969年、空軍大将に昇進した。

また、エジプト空軍参謀長に任命された。


1972年、アンワル・サーダート政権発足後に空軍司令官兼国防次官に就任した。


1973年、ムバーラクは第四次中東戦争でイスラエル軍への電撃作戦で有利に導き、国民的英雄となった。

戦後、最高勲章である「シナイの星」を授与され、空軍元帥に昇進した。

そして、人気にあやかろうとサーダートはムバーラクを副大統領に指名する。


1981年10月6日、首都カイロでパレードが行われている最中にサーダート大統領が暗殺される。

その後、暗殺者たちと保安部隊の間で激しい銃撃戦が展開され、8人が死亡、28人が負傷した。

サーダートを暗殺したのはイスランブルという名の男性で、動機は宗教対立で兄弟を逮捕された事で大統領を恨んでいたというものだった (1982年にイスランブルは銃殺刑となり処刑された) 。

しかし、この暗殺は現在でもムバーラクによるものだと考える者が非常に多かった。

そもそも、パレードにはムバーラクも参加していたがムバーラクは無傷であり、犯行を事前に知っていたかのような行動をとっていた。

サーダートの娘が暗殺の証拠があるとしてムバーラクを裁判にかけるようエジプト最高検察に訴えた (結局裁かれる事はなかった) 。


同年10月14日、緊急事態にムバーラクが後継の大統領に就任し、1982年に正式に大統領となった。

エジプトのトップに君臨したムバーラクは、政権の要職を腹心で固め、エジプト全土に非常事態宣言を発令し、強権的な統治体制を敷いた。

ムバーラクは非常事態宣言を後ろ楯に報道を検閲下に置き、秘密警察を設置して世論統制を行った。

秘密警察はあらゆる手段で反逆者を逮捕し続け、逮捕者には一般市民はもちろんのこと、新聞記者やイスラーム過激派、政治家などありとあらゆる人物が対象となった。

また、国民の貧富の差も顕著となった。

ムバーラクはサーダートがとっていた親米、親イスラエル路線を引き継いだ。

ムバーラクはイスラエルとパレスチナの和平交渉を取り持ち、第三次中東戦争で奪われたシナイ半島の返還を実現した。

しかし、これらの行動は同胞のアラブ世界から信用を失う事となる。

ムバーラクのアラブを蔑ろにした行動、独裁体制は自由を制限された貧困層による批判の対象となり、何度かイスラーム主義者による暗殺未遂事件に見舞われた。

冷戦期はムバーラクの外交は西側寄りであったが、東側・アラブ諸国との関係修復を努めた。


1984年、ソ連と関係が正常化し、1990年にはアラブ連盟への復帰に成功した。


1991年1月、湾岸戦争ではアメリカ・サウジアラビアを中心とする多国籍軍への参加を決めた。

アメリカに歓迎されたムバーラクは報酬として300億ドル (3兆円) を受け取った。


2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが起こるとアメリカへの支持を表明し、イスラーム過激派を厳しく取り締まった。

欧米諸国は西側寄りのムバーラクの姿勢を評価し、2000年以降、エジプトのGDP (国内総生産) の成長へと繋がった。

しかし、外交など一定の成果を見せたムバーラクだったが、公共事業や民間事業を統治し、本来インフラ整備等に使用される国家予算をそのまま自身の懐に入れ私腹を肥やした。

ムバーラク一家は欧米に無数の不動産や銀行口座を所有し、資産総額は当時、世界一の約700億万ドル (約6兆円) という莫大なものであった。

長期独裁政権によりエジプトの失業率は10%に迫り、年率20%近くの物価上昇を招き、国民の貧窮は限界に近づいていた。


2010年6月6日、アレキサンドリアのインターネットカフェで、ハリド・ザイードが、エジプト警察が押収したドラッグを仲間で山分けしている画像をネット上に公開しようとした。

すると、数時間後、ザイードの遺体が発見される。

警察は
「ザイードは所持していた麻薬を隠す為、袋ごと飲み込んで窒息死した」
と発表する。

しかし、ザイードは全身打撲の跡だらけであり、警察の発表は無理があった。

この事件が国民にムバーラク政権を打倒しようとする機運が高まっていく。


そして、チュニジアで「ジャスミン革命」が起こると、2011年1月、ムバーラク独裁体制に対する国民の不満がついに爆発し、同年1月25日よりムバーラクの辞任を求める暴動が各地で発生する。

ムバーラクは内閣を総辞職させて鎮火を図ったが、自身の退陣は拒否した。

エジプト政府は治安部隊を投入し、催涙弾等による強硬な鎮圧を図った。

その様子が画像によってインターネットで拡散される前にエジプト政府は回線を遮断して阻止するが、アノニマスの登場により仕方なく回線を復旧した。

その為、世界各国に強硬なデモ鎮圧の様子が流された。

カイロでの暴動が激しさを増すと、ムバーラクは次期大統領選挙の不出馬を表明し、同年2月11日、スレイマン副大統領がムバーラクが辞任したと発表した。


同年4月13日、デモ隊に対する暴力行為、不正貯蓄によりムバーラクは2人の息子と共に逮捕された。


2012年1月5日、ムバーラクには死刑が求刑されるが、同年6月2日、終身刑が言い渡された。

しかし、元々心臓が悪いムバーラクの健康状態が悪化する。

一時期重体となるが回復して刑務所に収監された。


2013年1月13日、エジプト最高裁判所はムバーラクの終身刑を覆し、裁判のやり直しを決定した。


2014年11月29日、ムバーラクは無罪が言い渡された。

しかし、横領の罪で禁錮3年が言い渡されると、再び裁判はやり直しとなった。


2017年3月2日、最高裁判所は再び無罪判決を言い渡した (この時点ですでに横領の3年は刑期を終了している) 。


2020年2月25日、ムバーラクの死去が報じられた。

享年91歳。



《就任期間》
1981年~2011年



∽ 総評 ∽

チュニジアで起こった「ジャスミン革命」は、その後、アラブ世界に広がり前例のない反政府大規模デモに発展した。

いわゆる「アラブの春」だが、その最も影響を受けたのはムバーラクのエジプトとカッザーフィー (カダフィ) のリビアであった。

日頃の不満が強い国ほど影響を受けたのだが、民衆が力を合わせた時の勢いの凄まじさを世界に知らしめた事例となった。

ムバーラクは権力を利用し私腹を肥やし、それは世界一と言われる程の資産を築く程であった。

典型的な権力者の行動であるが、そんなムバーラクは先代から続く親アメリカ、親イスラエル路線を踏襲した。

その結果、西側諸国から歓迎されたが、アラブ諸国からは嫌われてしまった (ただ、後にアラブ世界との和平に成功し、外交ではそれなりに成果を上げ、そこは評価されている) 。

どちらが正しいとは一概に言えないが、そんなアメリカはムバーラクが失脚しそうになると世論に従いあっさり見限った。

それまで仲の良かった国を平気で見限るアメリカにも正直問題がある (それだけか問題ではないのだろうが) 。

アフリカの独裁者はムバーラクのような人物が多く、欧米諸国に接近し私服を肥やし、後に瓦解する (ただエジプトはアフリカというよりもアラブであり中東より

欧米からの搾取に反発して独立したまではいいいが、独立後のプロセスがない為、その後、とんでもない政策により国民の反発に遭ってしまう。

ただ、こんな人物も死刑判決から一転無罪となり、91歳の天寿を全うする。

まさに「天道是か非か」である。