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ニコラエ・チャウシェスク (ルーマニア)
【 1918 ~ 1989 】



ニコラエ・チャウシェスクは、1918年1月26日、ルーマニア・オルト県スコルニチェシュティで生まれた。

家は農家で、チャウシェスクは10人兄弟の三男であった。

11歳の時、首都ブカレストに丁稚奉公として移住し、工場で働き始めた。


1932年、当時、非合法政党であった共産党に入党する。


1933年、チャウシェスクは逮捕されすぐに釈放されるが、1934年には抗議運動により再び逮捕された。

チャウシェスクを「危険な共産主義の扇動者」であると警察は認識した。


その後、チャウシェスクは地下に潜伏するが、1936年に再度逮捕された。


1943年にはトゥルグ・ジウの強制収容所に収監されるが、この時、後に影響を受けるゲオルゲ・ゲオルギュ=デジと出会った。


1945年5月8日、第二次世界大戦後、ルーマニアはソ連に占領され、強制的に東側陣営に組み込まれてしまう。

この頃、チャウシェスクは共産党の書記官を務めていたが、ルーマニアは自国で石油が採掘出来る為、資源面で他国に頼る必要がなく、ソ連とも一定の距離を置き、独自路線を進んだ。


1946年、以前の獄中生活で出会ったエレナ・ペトレスクと結婚した。

チャウシェスクはエレナを終生の伴侶とし、エレナも人生をかけてチャウシェスクを支える事となった。


1947年、共産党が権力を掌握すると、チャウシェスクはゲオルゲの下で国防次官を務めた。


1954年、チャウシェスクは党内で2番目の高い地位に就いた。


1965年3月19日、ゲオルゲが死去すると、政局内で後継者を巡る対決が起き、チャウシェスクに白羽の矢が立った。

そして、チャウシェスクは47歳で党のトップである書記長の座に就いた。


1966年、チャウシェスクは第二次世界大戦で激減した人口を増やそうと、人工中絶を法律で禁止した (42歳以上、またはすでに4人の子供がいる女性は除外) 。

これにより、5人以上の子供がいる母親は公的に優遇され、10人以上の子供がいると「英雄の母」という称号を与えられた (ただほとんどの女性は2、3人程度しか子供を産まなかった) 。

しかし、罰せられる事を恐れた多くの女性が極秘に中絶を行った為、障害が残ったり死亡する女性が後を絶たなかった。

また、離婚率にも目を付けたチャウシェスクは一部を除き離婚を禁止した。

これらの政策によりルーマニアの人口は増加に転じたが「子供を産まなければならない」「離婚出来ない」事で育児放棄や捨てられた子供が増加するという新たな問題が生じた。

しかも、孤児院の職員は子供を死なせた場合減給となった為、強引な治療が子供に行われ、大人の血を輸血された子供の中にはエイズや肝炎等、血液感染症にかかる子供が増加した。

これら孤児は「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれ、差別や偏見を受ける事となった。

その為、それらの子供はストリートチルドレンと化してしまい、国内の治安が悪化してしまう。


1967年、国家元首である国家評議会議長となり、自身の権力の強化を図った。

そして、国名を「ルーマニア人民共和国」から「ルーマニア社会主義共和国」へと変更した。

チャウシェスクはソ連と距離を置いた西側寄りの外国政策を行った為、西側諸国からは好感を得た。


ルーマニアはワルシャワ条約機構 (ワルシャワ条約に基づきソ連を盟主とした東ヨーロッパ諸国が結成した軍事同盟) に積極的に介入するが、1968年、チェコスロバキアで起きた「プラハの春 (ワルシャワ条約機構軍による軍事介入のみを取り上げた場合は「チェコ事件」と呼ぶ) 」では、チェコスロバキアへのルーマニア軍派遣を拒否した。

チャウシェスクは

「隣国である我が国を脅かそうとしている。条約軍はルーマニアには一歩も侵入させない」

とソ連を公然と非難した (ただ当のソ連はさほど気にとめてなかった) 。

チャウシェスクはアメリカや西側諸国から解放政策を持ち掛けられ、IMF (国際通貨基金) やGATT (関税及び貿易に関する一般協定) にも加盟した。

また、アメリカ大統領リチャード・ニクソンを迎え入れ、ニクソンの中国訪問に介入した。

チャウシェスクは中国に接近し、中国の国連加盟に一役買った。

チャウシェスクは東側諸国の国家元首だったが、西側諸国に積極的に関わりを持ち、1966年に中国の周恩来首相、1968年にアメリカのニクソン大統領、フランスのドゴール大統領を招き入れ、自らを「見識のある国際的な政治家」とアピールした。

また、招くだけではなくイギリスやスペイン、日本等を訪問した。

共産主義であったチャウシェスクは、毛沢東や金日成を称賛し、エレナも毛沢東の妻・江青と親交を結んだ。

チャウシェスクは中国の文化大革命に強く影響を受ける。


1974年3月28日、チャウシェスクは大統領制を導入し、自らが初代大統領に就任した。


1978年、ルーマニアの陸軍少将パチェパがアメリカに亡命する。

この亡命はチャウシェスクにとって大きな痛手となり、また、ルーマニアは国際社会から孤立を深めていき、経済が停滞していく。

すると、チャウシェスクは経済停滞からの脱却の為、工業化計画を推進する。

だが、これは国内経済を無視した無謀な計画であり、国内は更に混乱をきたした。

更に国の発展の為に黒海とのバイパスが必要だと考えたチャウシェスクは、ドナウ川運河を建設した。

運河は約10年後の1984年に完成したが、総工費は約32億ドル (約1兆2000億円) もかかり、債務返済に200年もかかるとされた。

しかも、農民から土地を奪い、アパートに集団移住させ労働を行わせる農地改革 (ミステマ・ディザーレ) を実施、工場では出来高払いとなるアコルト・グロードルも実施され、工員たちは過酷な労働を強いられた。

また、身内で利益を独占した事で更に国民の不満が募っていった。

チャウシェスクは放送出版はもとより市民の電話、手紙類に至るまで全て検閲させ、国内の惨状を報じる事を禁じた。


1980年代、チャウシェスクは対外債務返済の為に国内のあらゆる農産物や工業品を大量輸出した。

その為、国内は飢餓に襲われ、また、暖房用の燃料にも事欠き、停電は当たり前となった。

当初は高い支持率だったチャウシェスク政権だが、1980年代になると最低となり、国民が録に商品のない店に長蛇の列を作る中、チャウシェスクや家族は大量の食料に囲まれるという対照的な様子が度々放映された。

しかも、そんな中チャウシェスクは「人民の家 (リパブリック宮殿) 」と呼ばれる巨大な宮殿を建設し、本人自ら99回も現場に足を運ぶ熱の入れようだった。

しかし、すでにルーマニアの経済状況はチャウシェスクにはどうしようも出来ない所まできていた (側近に良い事しか聞かされずチャウシェスク本人は何も知らなかったとも言われている) 。

政府高官にもチャウシェスクの方針に不満を抱く者が現れ、それらを更迭すると主要な役職を身内で固めるようになる。

また、東側に属しながらも西側寄りの姿勢に当初は好感を持たれていたが、チャウシェスクの独裁体制は欧州統合の弊害だとみなされるようになる。


1989年11月25日、ベルリンの壁が崩壊し、チェコ、ハンガリー、ポーランドで民主的な政権が成立すると、チャウシェスクは東欧革命を危惧し、ソ連に対してワルシャワ機構軍により軍事介入を要請する。

だが、ソ連はチャウシェスクを見限り、要請を一蹴した。

国内ではチャウシェスク打倒の機運が高まり、これに対して軍隊による発砲で制圧しようと試みるが、国防大臣が拒絶する (後に国防大臣は不審死を遂げるがチャウシェスクによって処刑されたと噂が流れた) 。


同年12月21日、ハンガリーとの国境の街ティミショアラで起こった反政府デモに対し発砲を行い、死者は400人に及んだ。

すると、デモはブカレスト市内にも及び、1000人規模のデモが次々と起こった。


翌日の22日、チャウシェスク夫妻はバルコニーで行うはずだった演説を中断させられ、10万人のデモ隊に宮殿を包囲されると、ヘリコプターで屋上から逃げ出した。

同日午後、チャウシェスクによって遠ざけられていたマネスク外相が放送局を占拠し、勝利演説を行った。

チャウシェスクは失脚し逮捕され、実質トップとなった1965年から続いた24年の独裁に終止符が打たれた。


同年12月25日、チャウシェスクと妻エレナは軍事法廷にかけられる。

チャウシェスクは、

「こんな裁判は認められん!貴様らはただの市民に過ぎない。私を誰だと思っているんだ!」

と声を荒げて喚いた。

だが、開廷からわずか1時間で結審し、即日、銃殺による死刑が執行された。

チャウシェスクとエレナの銃殺の様子はニュースで全世界に放送された。



《独裁期間》
1965年3月22日~1989年12月22日



∽ 総評 ∽

チャウシェスク夫妻の銃殺の様子は当時、普通にニュースで報道され、当時まだ子供だった私もニュースを見た時の衝撃を未だ鮮明に覚えている。

今では到底考えられない事だが、激しい銃撃と共に煙が立ち上がり、夫妻が横たわり動かなくなると蝋人形のような表情のチャウシェスクがアップで映されていた。

独裁者が銃殺で処刑されるという末路を送るのは極めて異例の事であった。

しかも、失脚してすぐに裁判を行われ、たった1時間で判決が結審し、その日の内に処刑されるという全てがわずか数日という異常なスピードの早さであった (フセインですら判決後、執行まで3年かかった) 。

それほど国民の怒りが強かったと思われる。

ただ、チャウシェスクがやろうとした事は決して無駄で愚かとは限らない。

先の大戦で減った人口を増やそうとするのは必要な事であるし、経済の発展を期待して黒海とのバイパスを作るというのも決して間違いだとは言い切れない。

ただ、どちらもタイミングや状況、方法がいけなかった。

若い人間が増えなければ国の未来がないのは事実で、チャウシェスクは減った人口を増やさなければと考えた。

現在の日本もそうだが、年寄りばかりいる国に未来はない。

ただ、5人以上産む事を求めたり、中絶を禁止したり離婚を禁じたりと、誰がどうみても流石に強引で行き過ぎている。

そもそも女性が子供を産まない理由は、産みたくないのではなく、産める環境にないという理由が最も多いといえる (そもそも世界的にみても女性が産む子供の数は1~3人が一般的である) 。

バイパスを通すのもそれにより流通が増える可能性もあるし、雇用も増える事になる。

だが、莫大な費用を払えず、労働による対価も録に支払わないとなると、やる意味が全くない。

チャウシェスクは独裁者にみられる虐殺というのは特に行わなかったが、経済を破綻させ国民は食べる物もなくまた、冬の寒い時期に電気や暖房といったライフラインもない地獄のような生活を送るはめとなった。

餓死者や凍死者はかなりいたと思われ、ある意味単純な虐殺より酷い結果ともいえる。

チャウシェスクは国内における政策は全て酷いものばかりであったが、対外的にはソ連を主体とする東側に属しながら、積極的に西側に接近した。

その事は当初は好意的に捉えられていたが、民主制の西側に接するのに自国は共産主義を貫くという矛盾と姿勢が次第に危険で邪魔な存在とされてしまった。

正直、どっちつかずの何もかも中途半端な姿勢であり、ソ連にずっと媚びていた方が最後まで独裁を続けられていたかもしれない。