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サルバドール・アグロン (アメリカ)
【 1943 ~ 1986 】



サルバドール・アグロンは、1943年4月24日、プエルトリコ・マヤグエスで生まれた。

両親はアグロンがまだ幼い時に離婚し、母親と妹の3人で暮らした。

母親は地元の修道院で働き生計を立てていたが、アグロンと妹は修道女に虐待された。

その後、母親はペンテコスタ派の男性と結婚し、アメリカ・ニューヨークに移住した。

アグロンと義父との関係は悪く、その為、プエルトリコに戻り、父親と一緒に住むようになった。

この時、父親は再婚していた。


10代のある日、アグロンは継母が首を吊って自殺しているのを目撃する。

これからアグロンは転落した人生を歩み始める。

アグロンはマヤグエスにある工業高校に通った。


その後、父親によってニューヨークに住む母親の下に送り返され、1958年、ニューヨークで悪名高きストリート・ギャング「Mau Maus」の一員となる。


1959年8月29日、別のストリート・ギャングと抗争となり、アンソニー・カルゼシンスキィ (♂) とロバート・ヤング (♂) を刺し殺し、逃走した。

ニューヨークはこのギャングの抗争で一時騒然となった。

アグロンは戦闘中に赤い裏地の黒いケープを着ていた為、『The Capeman (ケープマン) 』と呼ばれるようになった。

逮捕されたアグロンは、死刑判決を言い渡された。

判決を言い渡された時、アグロンはまだ16歳であった。

多くのニューヨーク市民はアグロンの死刑は当然だと考えていたが、犠牲者のヤングの父親は死刑に反対する運動を起こした。

刑務所に収容されたアグロンは、キリスト教徒となった。

刑務所で読み書きを勉強し、高等学校と同等の認定卒業証書を取得した。

アグロンは自身の人生についていくつもの詩を書いた。

そして、ニューヨーク州立大学の芸術の学士号を取得した。


1962年、ニューヨーク州知事により、アグロンは死刑から終身刑へと変更された (ニューヨーク州は1963年以降、死刑が執行されていない) 。


1976年12月、知事によりアグロンは減刑され、翌1977年に刑務所から解放される資格を得てフィニキール矯正施設に収容された。


だが、同年4月に飛行機に乗ってアリゾナ州フェニックスへ逃走し、2週間後に逮捕された。


同年11月、脱走についての裁判が行われるが、結局、精神病を理由に有罪判決とならなかった。


1979年、アグロンは釈放となった。

アグロンを題材した映画が公開され、その収益で得たお金を犠牲者の家族の為の基金にした。

その後、アグロンは青少年相談員として働き始め、ギャングによる暴力に反対し続けた。


1986年4月16日、肺炎による内出血を引き起こすと入院し、6日後の22日、死亡した。

享年42歳。



《殺人数》
2人

《犯行期間》
1959年8月29日



∽ 総評 ∽

ギャングのメンバーとして敵対するギャングの2人を殺害したアグロン。

アグロンが殺人を犯した時、まだ16歳という若さであった。

アグロンは死刑判決が下されたが、殺害された犠牲者の父親が死刑に反対し、年齢もあり減刑され釈放された。

私は犠牲者の遺族が加害者の死刑に反対するのならそれ以上何も言う資格はないと思っているが、今回はもう1人犠牲者がいるのだ。

片方の遺族も死刑に反対しているのならいいが、もしそうでないのなら反対してはいけないと思う (ただ、今回の場合は犠牲者もギャングのメンバーであり、他に犯罪を行ってきた可能性があるのでなんともいえないが) 。

アグロンは1度脱走しており、精神病を理由に有罪にならなかったが、脱走している時点で反省してないのは明白だ。

キリスト教に触れ、勉強して学士号を取り、あたかも更生したように見せていたのが全部嘘だったと証明している。

それなのに有罪としない司法が全く理解出来ない。

アグロンは釈放後、青少年相談員として働き、暴力に反対し青少年の更生に尽力した。

だが、いくら努力しても過去の悪行が消えるわけではない。

そんなアグロンは42歳の若さで亡くなったが、まさに因果応報といえる。