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チャールズ・マンソン (アメリカ)
【1934 ~ 2017】



チャールズ・ミルズ・マンソンは、1934年11月12日、アメリカ・オハイオ州シンシナティで生まれた。

母親はキャスリーン・マドックスといい、父親をカール・スコットといった。

マドックスはケンタッキー出身の売春婦で、マンソンを生んだ時、まだ16歳であった。

マドックスはマンソンが生まれてすぐ育児放棄した為、マンソンは数週間戸籍も名前もないまま過ごした。

その後、マンソンは「チャールズ」という名前を付けられた。

マドックスは重度のアルコール中毒で、ビールを飲みに行った店のウェイトレスにマンソンを売った。

しかし、すぐに叔父に引き取られた。


1936年、マドックスはケンタッキー州へ児童援助を申請し、申請は通るが受け取る事はなかった。

そして、マドックスは一時的にウィリアム・マンソンと結婚した為、「マンソン」という姓となった。

しかし、マドックスはほとんど家に帰る事なく、数日か数週間に1度戻って来るかどうかであった。


1939年、マドックスとその弟が強盗で逮捕され、懲役5年が言い渡され刑務所に収監された。

その為、マンソンはウェストバージニア州にいる別の叔父叔母の元へ引っ越す事となった。

その後のマンソンは祖父母等親戚の家をたらい回しにされ、最終的に孤児院に収容される。


1942年、マドックスは釈放され、孤児院にいたマンソンを引き取った。

この時、マンソンは物静かな性格となっていた。

だが、マドックスは再び家を空ける事が多く、マンソンは常に孤独であった。


マンソン9歳の時、初めて窃盗を行い、逮捕される。

マンソンは「reform school (若者や初犯者が社会復帰の為に訓練等が行われる拘留施設) 」に送られた。


1947年、マドックスはマンソンを里親に預けようとするが叶わず、結局、インディアナ州の裁判所命令で「Gibault School (カトリックの学校) 」に配属された。


しかし、マンソンは翌年、逃亡し、マドックスの元へ戻るが拒絶される。

その後、1人で生きていく為に窃盗を行うようになる。

だが、その都度逮捕され、少年刑務所や更生施設に入っては外に出るという生活を繰り返した。

その中の1つの施設に収容していた時、マンソンは囚人を強姦し、カミソリの刃で喉を切りつけた。


1952年、マンソンはオハイオ州チリコリーにある矯正施設に入所し、そこでは問題行動を起こす事なく、勉学に勤しんだ。

マンソンの適性検査ではIQ109と診断され、音楽以外の全てに対して平均的な適性があるとされた。


1955年、マンソンはウェイトレスの女性と結婚し、チャールズ・ジュニアを生む。

しかし、マンソンは低賃金の仕事に就くが、車を盗む事は止めなかった。

その為、子供が生まれた直後、マンソンはロサンゼルスで車の盗難で逮捕された。

マンソンは懲役3年が言い渡され、妻とは離婚した。


小切手の偽造等で刑務所に入っていたマンソンは1967年3月21日、ロサンゼルス沖にあるターミナル島の矯正施設を1年足らずで出所した。

そして、バークレーに移り、刑務所にいた時に出来た友人の助けを借り、アパートに住み始めた。

その後、図書館職員のメアリー・ブラナー (♀) と出会い、ブラナーのアパートに転がり込む。

ここからマンソンは暴走を始める。


②に続く



* 追伸 *

明けましておめでとうございます。

今日から新年記念としてチャールズ・マンソンを数日に渡って掲載していきたいと思います。

実は今年の新年記念はテッド・バンディかジェフリー・ダーマーを掲載する予定でしたが、昨年、マンソンが死んだ為、急遽マンソンに変更致しました。

見知った内容だと思いますが、お付き合い頂けると嬉しいです。