
ジェーン・エリオット (アメリカ)
【1933 ~ 】
ジェーン・エリオットは、1933年5月27日、アメリカ・アイオワ州ライスヴィルで生まれた。
エリオットの家は農家で、父親はアイルランド系アメリカ人であった。
エリオットは5人兄妹であり、エリオットは4番目の子であった。
エリオットはノーザン・アイオワ大学に入学し、教育の学位を取得する。
大学を卒業後、小学校の教員となったエリオットは、地元アイオワ州ライスヴィルの小学校に赴任した。
1968年4月4日、黒人の権利を訴えていた公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺される事件が起こる。
この出来事に怒りと悲しみを感じたエリオットは、その後、黒人指導者に対する無神経な質問をする白人のTV解説者に激怒し、人種差別がいかに愚かな事かを自身の学校の生徒へ伝えようと考える。
この時、エリオットは小学3年の担任教師であったが、子供たちから差別問題から守る為、子供たちに了承を得た上で、独創的な授業を始める。
エリオットはクラスの生徒達を青い目と茶色い目の2つのグループに分類し、
「青い目は良い子です。だから5分余計遊んでも良いです。茶色い目の子はダメな子たちなので、水飲み場を使ってはダメです」
と話し、青い目の子は優れ、茶色い目の劣っていると決めて1日過ごさせた。
そして、翌日には今度は逆の立場にして過ごさせた。
エリオットは差別する事、差別される事の厳しさを子供たちに伝えたかったのだが、内容を理解して行っているにもかかわらず、実験が始まると子供たちの態度に明らかな変化が生じた。
実際、子供たちは差別に対する考え方が変わったのだが、それとは別に優れているとされた側の子供たちが皆、無条件に優越感を抱き、劣っているとされた生徒達を見下すような態度を取り始めたのだった。
また、この実験授業は2日間行われたのだが、授業が行われる2週間前と授業が行われた2日間、そして、授業後の2週間後に国語と算数のテストを行った所、優れているとされた時の成績が最高を示し、劣っているとされた時が最低を示した。
この授業の様子はカメラで撮影されており、ドキュメンタリーとしてテレビで放送され、物議を醸した。
その後、エリオットは教員を退職し、人種差別に対する犯罪が無くなる事を願い、全米各地を渡り刑務所や企業で講演を開き、この実験を何度も試みていた。
この授業の様子はABCテレビで放送され、現在でも『A CLASS DIVIDED (クラス分割) 』としてDVD等で視聴可能である。
∽ 総評 ∽
差別への反抗から特別な授業を行ったエリオット。
実験に参加した子供たちは小学3年生という事で、まだ、9歳の幼い少年少女であった。
そんな子供たちがわずか2日間の実験で、優劣を植え付けられる事で人格まで変化してしまう事態となった。
エリオットは目の色でクラスを分ける事で、いかに差別が愚かで情けない行為かを知ってもらいたかったのだろうが、真意とは別に人間の真理が如実に現れる結果となった。
人間というのは根底では相手を見下し、上だと感じたいと願う生き物である事が証明された。
ただ、おそらく成績の変化は想定外であったであろうが、人間は自身が優秀だと言われた方が自己暗示のようなものなのか成績も自然と上がってしまうのであろう。
エリオットは科学者でも何でもないただのいち教師だが、それほど難しくはないちょっとした実験で、こうもあっさり人間の心理をつく事になった。
まだ幼い子供という事もあるが、このままもし続けたらもっと酷い結果になった可能性もあり、本当に恐ろしい限りである。
【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★☆☆
・残虐度 ー
・異常性 ー
・特異性 ー
・殺人数 ー
《実験期間:1968年4月5日~同年4月6日》
コメント
コメント一覧 (24)
そしてこれ、見事に同じ結果しか出てこないのが恐ろしい
衣食足りて礼節を知る、貧すれば鈍するとは老子だか孔子の言葉だったはずですが
あの言葉は真理を突いているようですね、見事にど真ん中を打ち抜いた言葉だ
対象が子供だという事もあったでしょうが、差別意識というものは本当に簡単に植え付けられてしまうという事がよくわかる事例だと思います。もし日本の学校で同じ実験をしたらPTA等から猛烈なバッシングが来そうですが。
確かに恐ろしいですね。
人間というのは見事に同じような方向性に向かってしまうんですね。
「倉禀充ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」
その通りだと思います。
桓公を覇者に導いた管仲の言葉ですがその通りですね。
人間というのはある一定の生活があって初めて他の事を考える事が出来る。
東日本大震災の時、生きるのも精一杯だった人達に、礼儀や礼節など無意味なんです。
話がそれてすいません。
>悪趣味レディさん
似てますね。
ある意味幼い故に純粋なのでダイレクトな結果になってしまったのかもしれません。
こんなに簡単に差別が助長されるのであれば、いじめが無くなるわけないですよ。
日本では100%不可能でしょうね。
まず許可が下りないでしょうし、下りてもやろうとする先生がいないでしょう。
ただ、結構大事な事だと思います。
自身で体験して初めてわかる。
いじめも自分がされて初めてどれだけ辛いかわかると思います。
とある講師が、以前女子大でこの実験授業を紹介する際、唐突に学生たちに向かって「髪の長い人は頭が良い人、短い人は頭が悪い人」などと言い、髪の長い人を褒め称え、短い人を貶めている内に、五分と経たず生徒の顔付きが変わってきたので、怖くなってあわてて授業要旨を説明することになったという話を本人から聞きました。日本で実施するには、周到に実験をコントロールする必要がありますね。
エリオットの実験は何度か行われているのでしょう。私が知っているのは恐らく成功例です。子供たちが事前に学力テストをした後、一週間ずつ交代で優劣を付けられ、最終的に自分たちのしてきたことを振り返り差別とは何かを考えた上で、もう一度学力テストをするというものでした。子供たちの最高成績は記事通り優性とされた時で、最低成績は劣性とされた時でしたが、最終的な学力テストの結果は事前の学力テストを上回っていたそうです。
差別や心に関わる非常にデリケートな問題なので、安易に再現しようとすると先の講師のようになってしまうのでしょうが、差別問題にフタをしがちな日本において、差別の早期教育の重要性は少なくとも見直されるべきではないかと思いました。
お久し振りです。
お元気そうでなによりです。
なるほど、たかが5分でもそうなってしまうのですね。
似たような実験は様々な所で行われているんですね。
確かにエリオット自身も他に何度もやっていたと記述がありましたし。
私もこの実験が正しいか正しくないかは別にして差別に対する考え方というのはきちっと教えるべきだと思います。
つまり、ある一定の生活が出来ない者は他の事を考えることが出来ず
自分が生き残ることだけ考える自己中心的な人間の可能性が高いということですね。
なるほど。一理あると思います。
もちろん皆が皆ではないと思いますが、大抵の人がそうだと思います。
自分がお腹減って明日の食事も事欠く状況で、他人の生活を気にして気遣いが出来る人は残念ながらまずいないでしょう。
自分の生活に余裕があって初めて他人の生活を考える事が出来る。
管仲の発言はまさに真をついており、実際管仲はその方針で国を豊かにした (と言われています) 。
http://syouji.blog.jp/archives/1008668029.html
そこにあるこの投稿についてですが、これは差別ではなく区別ですか?
>あ太郎 2015年10月17日 09:42
>普段ペルージアは、大学の街なのでイタリアでも治安がわりと
>良いところで学生も沢山住んでいます。殺人はもちろん強盗もあまり聴きません。
管理人はこの部分について問うていませんでしたが
これは客観的事実に基づくデータではなく主観でありますよね?
何時しかミヤネ屋で聞いた芸人ガダルカナルタカの発した
「昔はこのような事件は聞かなかった」
「外で遊んでも安全だった」くらい価値がないように
思うのですが如何思いますでしょうか?
イタリアの件は知りませんが鹿島アントラーズに所属していた柴崎氏が
スペイン離島のテネリフェに移籍した後に不安障害を発症しまして
そしたら某ネット掲示板では「テネリフェは教育水準が低いところ」
「野蛮人が多いから繊細な柴崎にはキツい」等という
コメントが多々ありました。調べて見ますとテネリフェでの
〇〇人辺りの犯罪発生率(殺人・強盗)はバルセロナ・マドリッドよりも
低いことが分かりました。そもそもイタリア・スペインは他欧州諸国より
犯罪自体が少ないわけですがイタリアの事件を扱ったサイトを見ますに
一切り口で全てを判断しているような人は多々います。
一例としてですが例えばこれです。
https://www.youtube.com/watch?v=h0h2HVV6Maw
キーワードは「田舎」「教育水準」「南と北」
「メガネ」「イタリアは~」です。
この事件は少し特殊なので文化的文脈から語るのは
間違ってはいないがまあ何処の国にも存在することではあります。
OECDの中でスペイン・イタリアは教育水準が高くないことは事実だが
犯罪自体はそれほど無いのだから悲観する必要はないと思われる。
が、データから周知されている「教育水準の低さ」から
日本でもそうだが一度スペインやイタリアで何らかしらの事件があると
「やっぱり」「当然」という受け止められ方をされている。
偏見・ステレオタイプが成せる業なのかな、と思っております。
トランプ現象が語られる際に出される
白人労働者階級、田舎、アメフト、と同じだろうかな。
あるデータから導き出される「傾向」というのが
「有る」のは確実なのだが取り扱いは
慎重にするべきではないかと思う。
アマチュア?カメラマンの日本人がいまして
そこでロシア語サイトを見ましたら殆ど翻訳されませんでしたが
その中でこう述べている人が居ました。
「シベリアは犯罪者の流刑地」と。
オーストラリアを語る際に出てくる
「オーストラリア人は犯罪者の末裔」と同義かな。
モスクワ辺りから見れば「南」と「東」が
蔑む対象になっているのだろうかな。
>人間は自身が優秀だと言われた方が
>自己暗示のようなものなのか成績も自然と上がってしまうのであろう。
カッペ、低学歴、等と言われると言い返すことはしても
実際の行動には結びつかないことが多いな。
有り体ですが、〇〇したら負け、のような気がして。
無気力症候群とも言えようか。やる気が削がれるわけだが
若しかしたら相手もそれが狙いでやっているのだろうか。
にしても蔑まれたことを理由に「見返したい」という
気持ちから行動に移すならやはり負けのような気がする。
そもそも物事に向かう純粋性が重要であるからして
不純なのは如何かとも思う。・・・・そんなことよりも単純に
自分がそこに向かう動機を見出せないというのもあるけど。
単純に嫌だと思うことをしたくないという逃げもあるかな。
まあ相手の思う壺にはなりたくないものである。
カッペだから〇〇、低学歴だから〇〇
という図式には嵌りたくない。
そう言い放つ人間にその行動を見せつければ
「確信」になってしまうので。
また物事は不変ではなく可変であることも示したい。
>カッペだから〇〇、低学歴だから〇〇
>という図式には嵌りたくない。
この言い方だと「嵌りたくない」が動機のように受け取れてしまうが
第一に別に自分は田舎だから、低学歴だから、
その反発からこういう言動を取っているのではない。
精神的不安定になると、それはもう酷いものだが通常時は
大して意識せずにこのような感じであるから自然体ではある。
後はネットだと「オン」という意識があるからかもしれない。
普通の人だとネットが「オフ」らしくそれが羽目を外す動機とのこと。
・・・・リフレッシュは分かるが人に当たってリフレッシュするのは
止めてもらいたい。ただまあ聞き入れられることはないだろう。
自分にしても家族の自分に対する願望を聞き入れることは
非常に少ないから素直に受け止めるべきか、否か。
>という図式には嵌りたくない。
実際に都会に出てくる多くの人は田舎で給料の良い
仕事に有りつけないから都会に出ていくわけだけど
多かれ少なかれ「都会の一員になりたい」と思ってそうではある。
そういう行動(迎合)が相手を付け上がらせる。
相手が自分の良い様に動くと勘違いさせてしまう。
一極集中化は国の国策でもあったから
あまり責めることは出来ないけど。
自分にしても低学歴という意識が人一倍ある所為か
人前に中々出ることが出来ない。一度知らない所に行けば
汗はダラダラで心臓はドクドク鳴りっ放しである。
自ら死ぬつもりは無いが「生きていても良いんだ」と
自信に満ち溢れていれば
きっとこのような生活を何十年も送ってないだろう。
ということからして自分は自身がないということがわかる。
では自分が定める最低限の肩書を得れば
安心するのか?答えはYES。
人間社会で生きている以上。
多くの人間が定める「基準」から逃れることは
出来ない・・・若しくは難しいのだ。
自分がイケているという自覚があったのも災いしている。
それと同時に物心付いた時から一般的に世間で
イケてるとされる人と自分に関連性や類似性が無いことにも
気付いていたのでどうしようもない不安、怒りがあった。
美人な母と似ていると言われるのが誇りだったが
何時しか似ていると言っていた人が時々会う度に
自分が「顔」に関して自慢とは思っていない
親父を指すようになったのは裏切りにも似たものを感じを受けた。
今でも思い出す度に不愉快な気持ちが湧いてくる。
相手の立場に立つつもりはないが、まあ有り体に
言えば其れは何の意味もない「リップサービス」
「お世辞」というところだろう。馬鹿正直に受け取った自分も馬鹿だった。
振り返るとそういうことは幾つかある、マラソンの時がそう。
典型的な事例らしいが「一緒に走ろう」と提案してきた
同級生が何時の間にか自分と一緒に走っておらず
自分よりも先にゴールしていたことがあった。嘘八百。
自分が相手に頼りすぎているという側面も大いにある。
そんなこんなで顔面にコンプがあったので10代の頃に
プチ整形をしたがプチ整形故にあまり変わらず
そうして生活も変えず1年経った頃には
糸が解けて尚且つ定着せずに元に戻ったことから
自分の顔について全く自信がない状態である。
少なくとも自分にとっては。普通相手に承認されれば嬉しいはずだが
勿論、承認されるということは自分が安心して生きられることにも繋がるが
一方で自分には「自分自身が納得しなければ意味がない」という気持ちもある。
それ(顔)については自分の納得次第だから人から親から何を言われようと
全く耳に入ってこない。でもそれだと永遠に解決しないな。
「呪縛」とも言えるわけだけど解き放てられる自信がない。
死ぬまで永遠に付き纏う問題(課題)か・・・・・。
閑話休題。自分の話は此処までにして差別について。
下記ブログは専門の人ではないが秀逸なので参照あれ。
ステレオタイプ・偏見・差別・不平等問題の一般的な研究
http://yutakioka.jugem.jp/?eid=15
正直に言うと自分は殆ど言える立場ではないのだけれど。
親には子(と言っても大きな子供「成人」)と
落ちこぼれの自分いうのを免罪符に
我儘ばっかりで要求しかしないもの。相互性など
これっぽっちも考えていない。何かが欠落しているのか。
> RA 2017年04月25日 08:48
>衣食足りて礼節を知る、貧すれば鈍するとは老子だか孔子の言葉だったはずですが
>あの言葉は真理を突いているようですね、見事にど真ん中を打ち抜いた言葉だ
それステレオタイプではないですか。金を持つ人間が礼節あるとは思わない。
誤魔化している場合も多々あるのではないか。
実業家の堀江が典型ではなかろうか。資産は公表されてないが
一般的に考えれば一般人よりも多くの資産を抱えているだろうに
炎上で稼いでいるなら「計算」なので全然当て嵌まらないけど
言論だけを切り取れば見えてくるのは「不満」ばかり。
博之、堀江は心が豊なのだろうか。
からして金は一指標にしか過ぎない。大きい指標ではあるが
絶対的指標ではない。大きい指標だから多くの人間が
引き摺られるだろうが。
改善したという研究結果がスウェーデンか何処かの研究機関から
発表されたのを数年前に見たが
何故に鬱病になるかと言えば一般論からすれば
「無能」だからであろう?無能な人間には相応の対価が支払われ
有能な人間には相応の対価が支払われる。
全ての人間に金が払われれ、それで解決するなら、
それに越したことはない。が、資本至上主義、
教育至上主義からしてそのようなことは夢のまた夢。
夢にしか過ぎない。同等というのはありえない。
つまり「なるべくしてなった貧困」それに対する
差別・区別も合法ということ。
それをコメント欄で主張されているわけですね。
貧しい奴は〇〇なんだあ~
教育水準が低い奴は〇〇なんだあ~
まあ自分も眩暈がしてくるコメントしている人間を
差別的に見るので人のこと言えないですが
程度はあるけど皆一緒ということですな。
ではでは。失礼致しました。
悪いが諺には大抵、対義となる言葉が存在する。
絶対的な「言葉」ではない。使用している人の
思想信条が垣間見れるツールかな。
寓話とかは先人の智慧というのが一般的解釈だが
大人が子供を縛り付ける為に使用している側面もある。
ただ寓話も諺と同じで「キツく当たれ」という
話もあれば北風と太陽のように宥和を促すものもある等
一様ではなく多様的。一面ではなく多面的。
絶対ではないのでお忘れなきよう。
その「絶対」が人を傷つける側面があることを
お忘れなきよう。ではでは失礼しました。
「〇〇すれば~〇〇」は「〇〇だから〇〇」という展開と全く同じ。
自分が語った事で為になる話があったと思う。
そこではこの言葉は出してなかったから言わせて貰う。
「枠に嵌め込むな」と。
枠に嵌め込まれたというのを自覚すると
抜け出すの容易ではないのだよ。
顔でも学歴でも。後者は競争を促すのに
必要なのかもしれないが・・・それもこれも
人間社会の未熟さ故に起きること。遠い未来かもしれないが
BI(ベーシックインカム)が施行されるようになると
また「人々の意識」も変わるのかな。
言葉砕くが、ああいう固定化した意識はマジで害悪。
〇〇なら〇〇でないといけないのか。
貧困者なら殺人犯でないといけないのか。
貧困者なら心が貧しくなければならないのか。それは
競争意識を高める為の不当なレッテル貼りではないのか。
そもそも貧者にしろ殺人犯に堕ちるのは
数からして少数だと言うのに。
最近では「相対的貧困」という言葉が
NHKを始めとしたメディアから囁かれ始めた。
「貧者」という言葉も現代社会では曖昧だ。
何処を指して言っているのかまるで分からない。
示された「枠」から抜け出せないからだろう。
例えば性犯罪は特に加害者が知人でも無ければ
大抵は世間一般的に優れていないとされる容姿が多い。
固定化された人々の「美意識」から又は
他の能力でも劣ることから他人から
相手にされないことが多いのだろう。そうしてストレスを
感じて溜めることで社会的に外れた行為である
倒錯的行為に没頭するようになる。
人々には個々人に意思を表明する自由があるが
これは社会的問題と言うことは出来ないのか。
加害者も被害者もまた社会的犠牲者だろう。
落とし前・結果責任・代替不能という観点から
自分は死刑賛成派ではあるが大して考えもせずに
死刑賛成している人は多々いる。ああいう人にこそ
自分の行動の意味を考えて欲しいのだが無理だろうか。
差別とか区別とかそう言った事を深く考えた発言ではないと思います。
もちろん本人に聞いてみないとわからないですが、本人が現地に行ってそう感じただけで、それだけでは主観ですが、もしかしたら犯罪の統計を元に言った発言かもしれません。
偏見や考え方が古いというのは仕方ないですね。
私は色々な考え方に「寛容」というか「諦めている」というか特に何も考えていません。
人それぞれ考え方があるし、自分の考え方が正しい事はなく、人の考え方も正しくないという事はない。
人間子供の時に受けた感情が人生を左右するのは間違いなく、誰しも色々あります。
諺や過去の人の発言に共感するのは決して悪い事ではないと思います。
私は色々勉強して偉人の言葉を沢山知りましたが、個人的にためになると思ったものは取り入れて、そうでないと思った事は特にスルーしてます。
それで良いと私は思っています。
もちろん偉人の発言が全て正しいと思うのは危険ですが、自分が良いと思えばそれで良いと思います。
私は哲学者でもなければ何かに特化して勉強した博士でもないので、偉そうな事は人に言えません。
毎日記事を更新していて最後に個人的な総評を書いていますが、結構辛辣な意見も頂きます。
それはあくまでも私の個人的意見であり、人に強要するつもりもなければ共感して欲しいとも思いません。
内容に批判や中傷を受けても私個人は何も思いません。
人それぞれ考え方がありますし、全員が同じ意見というのはまず不可能ですし。
≫自分がお腹減って明日の食事も事欠く状況で、他人の生活を気にして気遣いが出来る人は残念ながらまずいないでしょう。
新渡戸稲造さんがそれですね。米百表の精神ですよ。
人でもモノでも育てるのに必要な考え方がソコにはあります。まぁ、コレを実践しているのがあまりに少ないのが実状ですかね。直ぐに結果を求める現代には必要な考え方だと思うんだが、会社や社会は、そういう時間のかかる事は求めないからねー。
会社や社会はすぐに結果を求めがちです。
お偉いさんからしてみればその気持ちもわかりますが、大概の人がすぐに結果なんて出ませんよ。
もちろんすぐ出せる人もいると思いますが、それはマイノリティであり、育てるというのが基本です。
RPGもいきなりラスボスじゃ勝てないように、徐々に育てていくのが基本だと私は思いますね。
宗教への邁進も、正義の正当性を訴えるのも最終的にこじらせてしなくてもいい差別と殺人を生んで。
個人の意見を持つのは大事ですが、個人の意見の正当性を他人に求めるのは違うと思います。また差別はしませんが、ある種の壁をもって他者と接するのは、同情より優しい事だと思いますし、そういう方は多分、大きい不幸に見舞われにくいと思います。論点ずれましたね、すみません。
仰る通りですね。
何事も過剰に良い事はありません。
宗教も個人で信仰してる分には自由ですが、他人に強いたり信仰心の篤さから暴走したりしてしまうととても容認出来るものではありません。
個人の意見を持つのは当然自由だし良い事だと思いますが、人に押し付けたり自分の考え方が一番だと思うのはダメですね。
私もある程度の人のとの距離間って大事だと思います。