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マリアンネ・バッハマイヤー (ドイツ)
【1950 ~ 1996】



1950年6月3日、旧ナチス・ドイツの将校の娘としてマリアンネは生まれた。

マリアンネはドイツ (旧東プロイセン) ・ザルスタットで育った。

だが、マリアンネの父親は酒に溺れ、そんな様子に愛想を尽かした母親は離婚し、マリアンネを連れて家を出た。

その後、母親は再婚するが、マリアンネは継父と反りが合わず、喧嘩ばかりしていた。


マリアンネ9歳の時、見知らぬ男性にいたずらされる。

これが、幼いマリアンネの心にトラウマとして残った。


マリアンネ16歳の時、当時付き合っていたボーイフレンドの子供を妊娠してしまう。


マリアンネ18歳の時、再びボーイフレンドの子供を妊娠するが、次女を出産直後に近所の男性に強姦されてしまう。

マリアンネを強姦した男性は、裁判でわずか1年半の判決が下されただけだった。

この事にマリアンネはショックを受けると共に、司法に対しての憤りを感じる事となる。

マリアンネの2人の子供 (女の子) は、出産直後に養子に出されている。


1973年、マリアンネは三女アンナを出産する。


マリアンネ達が住む家の近所には肉屋で働くクラウス・グラボウスキー (35歳) という男性が住んでいた。

グラボウスキーは日頃からアンナの事が気になっていた。


1980年5月5日、グラボウスキーはアンナ (この時7歳) に
「おじさんの家で猫と遊ばないか?」
と言ってアパートの自室に連れ込むと、強姦し、アンナが身に付けていたストッキングで首を絞めて殺害した。

そして、グラボウスキーはアンナの死体を縛って段ボールに入れ、数時間自宅に置いた。

その後、運河の側の土手に穴を掘り、埋めて捨てた。

マリアンネは帰って来ないアンナを心配し、すぐに警察に通報する。

警察はすぐにグラボウスキーの事を疑う。

その理由はグラボウスキーは幼児に対する性的いたずら行為により1970年に逮捕されていたからだった。

その時は精神科医に通院する事を理由に釈放された。

だが、グラボウスキーは1975年に女の子を自室のアパートに連れ込み、いたずらしようと服を脱がせると、女の子は泣き出してしまった。

あせったグラボウスキーは、泣き止ませようと咄嗟に口に手をあてた為、女の子は窒息して動かなくなってしまった。

慌てて女の子に水をかけると、何とか女の子は息を吹き返し、一命を取り留めたが、少女に対する暴行でグラボウスキーは再び逮捕された。

裁判所は立て続けに起こした少女への淫行に対し、
「このまま釈放するのは危険な人物であり、収容施設にずっと入れ、保護観察下のもと生きるべきだ」
と審判を下した。

だが、グラボウスキーは1つだけ収容施設から釈放される事が可能であった。

それは睾丸除去手術を受ける事が条件であった (しかし、睾丸を除去しただけで陰茎はある為、性行為自体は可能) 。

男性は精巣を失うと、基本的に99%の患者が性衝動を失うとされており、1976年、グラボウスキーは手術を受けて退院した 。

だが、グラボウスキーはそのわずか1%の患者となり、性衝動が治まる所か前の失敗を踏まえ、1978年、隠れて男性ホルモンを注射する事で勃起能力が回復していたのだった。

結局、警察がアンナ殺害の犯人としてグラボウスキーを逮捕した。

厳しい尋問の結果、グラボウスキーはアンナ殺害を自白した。


1981年3月3日、グラボウスキーの裁判が始まると、アンナ殺害を認めていたグラボウスキーだったが、検事の追及に曖昧な返答をし、のらりくらり質問をかわした。

グラボウスキーは
「俺はもう子供に興味なんかありません。俺はただ遊んでやろうとしただけなのに、あのガキは誘拐されたと騒ぎやがった。しかも、俺から金をせびろうとした。俺は前科の事があるから動揺してつい首を絞めてしまったんだ」
と供述した。

このグラボウスキーのふてぶてしい態度や発言をマリアンネは傍聴席で黙って聞いていた。


同年3月6日、グラボウスキーの2度目の審理が行われた。

被告人席に座っていたグラボウスキーだったが、マリアンネは法廷に入るなり、グラボウスキーに近づくと所持していた22口径のベレッタでグラボウスキーを撃った。

マリアンネはグラボウスキーの背中から8発撃ち、その内6発が命中した。

撃たれたグラボウスキーは即死し、マリアンネは銃をその場に捨て、静かに両手を上げた。

あまりの出来事に裁判官や傍聴人は唖然とし、法廷内は騒然となったが、その場でマリアンネは逮捕された。

逮捕されたマリアンネだったが、事件が世間に知れると、世界中からマリアンネを擁護する声が届けられた。


1982年11月2日、マリアンネの裁判が開かれた。

娘の復讐による殺人を犯した母親の判決に世界が注目した。


1983年3月2日、マリアンネは殺人罪で起訴されたが、結局、マリアンネは過失致死と武器の不法所持のみで有罪判決となり、判決は懲役6年という異例の軽さであった。

この判決は戦後ドイツで最も衝撃的な判決となった。


マリアンネは刑務所に収容されて3年後、仮釈放され出所している。



≡ その後のマリアンネについて ≡

1985年、マリアンネは教師の男性と結婚した。


1988年、マリアンネは夫とナイジェリアのラゴスに移住した。

マリアンネの夫はそこでドイツ学校でドイツ語を教えた。


1990年、マリアンネは離婚したが、この頃、膵臓癌であるとわかり、ドイツに戻った。


1995年9月21日、マリアンネはトークショーに出演し、事件について話している。


1996年9月17日、マリアンネはリューベック病院に入院していたが、家で死ぬ事を望み、退院して家で死去した。

享年46歳。

波瀾に満ちた生涯を終えたマリアンネは、娘アンナと同じ墓に埋葬されている。


最後にグラボウスキー殺害を問われた際のマリアンネの言葉で終わりたいと思います。

「司法はグラボウスキーにふさわしい罰を与えはしないだろう。娘の死への償いは私がこの手で下す他はない」



∽ 総評 ∽

娘を無惨に殺害された復讐を法廷という場で行ったマリアンネ。

復讐というのは以前にも『ベナベンテ事件』や『ドクターS』など色々と紹介してきたが、女性が娘の復讐というのはそれだけでもインパクトがあるが、法廷の場というのがより鮮烈さを物語っている。

マリアンネは自身が強姦され、その相手が軽微な罪になった事をもちろん忘れる事はなく、娘を殺害した相手も罪が軽く済まされると感じ、マリアンネは自ら手を下した。

ドイツは当時、東西に分かれており、西ドイツは1949年に、東ドイツは1987年にそれぞれ死刑が廃止されている。

その為、マリアンネはグラボウスキーは死刑になる事はなく、それ所か心身喪失による軽い刑になる可能性すらあった。

また、法廷でのグラボウスキーの態度に憤慨したというのもあるだろう。

マリアンネの犯行はその衝撃さから全世界に知れ渡り、ほとんどがマリアンネを擁護する声ばかりで批判する人は皆無であった。

もちろん復讐など認められないという人も沢山いるだろうし、グラボウスキーはもしかしたらしっかりとした刑罰に処される可能性も確かにあった。

ただ、この事件に関しては私もマリアンネを擁護したい。

グラボウスキーは以前から小児性犯罪者であり、1度、「一生施設に収容されるべき」と言われておきながら、睾丸摘出で外に出てしまった。

99%は性欲が無くなるから大丈夫だと判断され釈放されたが、実際グラボウスキーは性欲が衰える事はなかった。

99%大丈夫と言っても1%はこのグラボウスキーみたいになるのだ。

確率で考えれば確かにほぼ大丈夫なのだが、このグラボウスキーのようにその後、犯罪を犯した場合、被害者や遺族が「1%なんだからしょうがないよね」と言うはずがない。

私個人からすれば死刑か一生塀の中か、去勢してしまえば済む話なのだ (ただし、去勢しても殺人や猥褻行為に及ぶ可能性があるので、やはり死刑か終身刑が妥当) 。

もし、一生施設にいたならば、アンナが強姦されて殺される事はなかった。

そう考えればマリアンネの復讐も致し方ないと思えてくる。



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★★☆
・残虐度 ★☆☆☆☆☆☆☆☆☆
・異常性 ★☆☆☆☆☆☆☆☆☆
・特異性 ★★★★★★★★☆☆
・殺人数 1人

《犯行期間:1981年3月6日》