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ベティ・ブロデリック (アメリカ)
【1947 ~ 】



本名エリザベス・アン・ブロデリック (通称ベティ、旧姓はビセグリア) は、1947年11月7日、アメリカ・ニューヨーク州イーストチェスターで生まれた。

ベティの父はフランク・ビセグリア、母はマリータといい、2人はローマカトリック教会の信心深い信者であり、ベティは6人兄弟の3番目であった。

父フランクはイタリア系、母マリータはアイルランド系アメリカ人であった。

フランクは兄弟と共に漆喰塗りの会社を設立した。

そんな両親はベティに人生における役割は良い妻、良い母になる事だと諭して育てた。


ベティはニューヨーク州ニューヨークにあるマウント・セント・ヴィンセント大学を卒業する。


1965年、南カリフォルニア大学とインディアナ州サウスヘンドにあるノートルダム大学との間でフットボールの試合が行われた。

試合後、パーティーが開かれたが、ベティは家族でパーティーに参加していた。

そして、パーティーにはカトリックの家族であるブロデリック家が参加しており、ブロデリック家の長男で、ベティは将来の夫となるダン・ブロデリック (本名ダニエル・T・ブロデリック) と出会う。

ダンはペンシルベニア州ピッツバーグ出身のノートルダム大学の学生であり、弁護士を目指していた。

そんな2人は互いに惹かれ合い、付き合う事となり、デートを重ねるようになる。


1969年4月12日、ベティの母によって計画された教会での結婚式が開かれ、ベティとダンは結婚した。

この時、ベティは21歳であった。

2人の新婚旅行はカリブ海への船旅で、後に友人の家があるアメリカ領ヴァージン諸島の島の1つ、セント・トーマス島に滞在した。

この新婚旅行で妊娠したベティであったが、この時、ダンは弁護士を目指す大学生であり、ダンの弁護士への成功を手助けする為、ベティは長女キムを出産する実に前日まで働き続け、夫を全面的にサポートした。


ベティはその後、次女リー、長男ダニエル、次男レットと4人の子供を生んだ (もう1人男の子を生んでいるが、生まれてわずか2日後に死亡した) 。

ダンが弁護士を目指し、勉強に勤しんでいた為、一家は貧困を極めた。

一家は寄宿舎や安価なアパートで暮らし、しばらく食券にたよった生活を続けた。

ベティはいくつかの仕事を続け、同時に母親として家事と育児も一生懸命こなした。


1973年、ダンはハーバード・ロー・スクールを卒業した為、家族はカリフォルニア州サンディエゴのラホヤへ引っ越した。


1974年、ダンがついに司法試験に合格する。

ベティとダンの念願がついに叶い、弁護士として収入は安定し、一家は一転裕福な生活を送るようになる。

一家はマイホームを購入し、優雅な暮らしに長年の苦労が報われたとベティは感じていた。

だが、徐々にそんな家庭に暗雲が立ち込める。

ダンは仕事熱心だった為、休日でも家に仕事の資料を持ち込み、家族と過ごす時間が減っていった。

そんなダンは次第にベティを責めるようになる。

ベティはそんなダンに耐え続けたが、不平は溜まっていった。

ダンは弁護士仲間と付き合う事が多くなり、家に帰ってくるのが遅くなり、子供と接する時間がほとんどなくなった。

その為、ベティの4人の子供たちはまるで片親のようだと感じていた。


1980年代前半、ベティは偶然入った喫茶店にダンと1人の女性が一緒にいる姿を発見する。

女性の名はリンダ・コルケナといい、22歳のという若い女性であった。

ダンが言うにはリンダは新しく雇った法律事務所のアシスタントだと告げた。

リンダは元航空会社の社員で、2人はすぐに不倫関係となった。

2人の関係をベティはすぐに疑い問い詰めるが、ダンはそれを否定する。


ある日、ダンの38歳の誕生日を祝う為、ダンの事務所を訪れた。

すると、ダンがリンダと出掛けている事を知る。

怒りが頂点に達したベティは、家に帰るとダンのオーダーメイドの高級スーツを全て燃やした。

この出来事により夫婦関係は悪化の一途を辿り、ダンは新しい家を購入して出て行った。

ベティは子供をダンの元に送り込み、子育てがいかに大変な事かを訴えようとした。

しかし、弁護士として法律を熟知しているダンは、この事を逆手に取り、ベティの育児放棄を理由にベティからの接近禁止命令を勝ち取る。

ベティはダンはもちろん子供にも会えなくなってしまう。

この事に激怒したベティはダンの家に押し掛けるが、ダンは接近禁止命令が出ている事を話し、すぐにいなくなるようベティに勧告する。

すると、ベティはダンの新居の玄関に車で突っ込んだ。

ベティはすぐに器物損壊で逮捕された。


その後、この事を理由に離婚を申請したダンとの裁判は3年続き、1989年1月、ついに離婚が成立する。

実はダンが離婚裁判を3年間も延ばしたのには理由があり、ベティに対する財産分与や慰謝料を大幅に減らす為だった。

ダンは実弟に17万5000ドル (約2300万円) と、45万ドル (約6000万円) を2回に分けて送金し、自身の資産を減らす事で慰謝料や財産分与の額を減らした。

結局、裁判所がダンにベティに支払うよう命じたのは3万ドル (約400万円) 足らずであり、本来ベティに支払われるはずの75万ドル (約9700万円) を払わずに済んだ。

しかもベティは子供達の親権も失ってしまう。

この離婚までの顛末はテレビで放映され、アメリカで最も醜い離婚の1つとされた。


ベティと離婚したダンは、同年4月22日、離婚成立から3ヶ月後にリンダと結婚する。

この頃、ベティは銃を購入し、その噂はダンの耳にも入ってきた。

ダンとリンダの結婚式が行われたのだが、ダンはベティが来た時に備えて警備員を雇った。

その為、2人の結婚式は警備員が警護する異様な状態の中、執り行われた。

しかし、ダンの警戒とは裏腹に、式場にベティが現れる事はなかった。

結婚式を終えたダンとリンダは、新婚旅行にカリブ海を選んだ。

これはベティとの新婚旅行で行った場所でもあり、この事を知ったベティは更に怒りを募らせた。

この頃、ベティは友人に

「ダンは私が育てたのよ。ダンの妻を名乗れるのは私だけよ。妻の座は渡さないわ!可愛い子供たちも私のものよ!」

と怒りを露にしていた。

そして、ベティはダンの家の留守番電話に悪態をつき、

「おい、まぬけ!あんたは戦う相手を間違えてるわ。サンディエゴ中にあんたが飲んだくれで自己中心的な冷血な最低野郎だと言いふらしてやる!」

と残したり、

「よくも私を怒らせたわね!殺してやる!」

とも残した。

しかし、ベティのもとにダンから書類が送られてくる。

それはこれ以上留守番電話に悪態を吹き込み続けると、訴えるというものだった。

この事でついにベティの精神は限界を超えてしまう。


同年11月5日、ベティはダンの家の鍵を長女から盗み、銃を持ってダンの家に向かった。

家に着いたベティは中に侵入すると、ダンとリンダのいる寝室に向かった。

寝室にはダン (当時44歳) とリンダ (当時28歳) が並んで寝ていた。

ベティはまずリンダに銃口を向け、4発発砲する。

弾丸は2発は外れたが、2発は胸に命中し即死した。

その後、ダンにも1発発砲し、弾丸はリンダ同様胸に命中した。

ダンは撃たれたがまだ息があり、ベッドの脇にある電話に必死に手を伸ばした。

しかし、ベティが電話線を引き抜いた為、電話を掛ける事なく、ダンもしばらくして死亡した。


ベティは事件後、友人に電話し、自分のやった事を告げると、友人が自首するよう勧めた為、すぐに警察に出頭した。

事件が公になると、ベティの事件は全米の注目を集めた。

事件を知る多くの女性がベティを応援するようになる。

夫の司法試験合格の為に必死に働き、4人の子供を育てたベティに対し、ダンは弁護士になるとベティを捨て、若い女性に走り子供たちをもベティから取り上げた為であった。


1990年10月、裁判での焦点はベティの殺人は衝動的だったのか、もしくは計画的であったかという事だった。

検察側はベティの殺人は計画的だったと主張し、弁護側は衝動的なものだったと主張した。

検察側はベティが銃を購入した理由を問い掛け、ベティは自殺する為だったと供述した。

弁護側もベティが殺人に至ったのはダンがベティを追い詰めたからだと主張した。

ベティは裁判で

「私は7年間も無駄にした。夫の目の前で自分の頭を撃ち抜いて、家中血まみれにしてやりたかった」

と涙ながらに語り、同情を誘った。

そして、ベティは

「最初は気分を落ち着かせようと外に出て、それから銃で自殺しようとしたが、子供たちの事を考えて止めた。その後、ダンの家に行って話を聞いてもらえなかったら死ぬつもりだった」

と供述し、弁護側はベティの一時的心神喪失を訴えた。

だが、検察側はダンが電話を掛けようとしたのをベティが冷静に電話線を引き抜いた事に、心神喪失ではとても出来ないと主張した。


1991年12月11日、裁判でベティにはダンとリンダによる殺人で有罪判決が下された。


1992年2月7日、ベティには銃の違法使用による懲役2年、ダンとリンダに対する殺人それぞれ懲役15年の合計32年が言い渡された。


最後にベティが刑務所で語った言葉で終わりたいと思います。

「あの人を死なせた事は後悔しています。だって私が生きている姿をずっとあの人に見せて上げたかったから」



∽ 総評 ∽

元夫とその妻を殺害したベティ。

愛憎による殺人というのは、女性の殺人事件の動機としてはポピュラーであり、珍しいという事はない。

法律のプロとしてベティがダンに太刀打ち出来るはずもなく、ベティのやる事は全て裏目に出てしまった。

確かにベティの気持ちも理解出来る。

実際、ベティはダンを献身的に支え、ダンが司法試験を受かるまで、家庭の事はもちろん子供を育てる傍ら、仕事も行った。

ダンは自身が法律に長けている事をいいことに、巧妙に根回し、徐々にベティを追い詰めていった。

そのやり方は陰湿で陰険、正直あまりダンを擁護できない。

しかも、成功して生活に余裕が出て来ると、若く綺麗な女性にうつつを抜かし、離婚を突き付ける。

ベティからしてみれば「あなたがここまで来れたのは私のおかげ」と思ってもしょうがないかもしれない。

ただ、頑張って弁護士になったのはダンの力であるし、それを献身的に支えようとしたのはベティ本人の意思だ。

よく、「ここまでやって上げたのに」とか言う人がいるが、誰も頼んだわけではないし (実際支えるようにダンが頼んだ可能性はあるが) 、恩を感じるのはかけられた側であってかけた方ではない。

「やって上げた」という恩着せがましい発想は危険で、こういった思考の持ち主は更に暴走する可能性が高い。

残念だが、苦労を共にした妻や彼女を収入や地位が上がり、数々の女性が言い寄って来ると、捨てて新しい女性に走る男性は少なからず存在する。

所詮、ダンがその程度の人間性だっただけの話しであり、それを見抜けなかったベティにも当然非がある。

結局、ベティがダンに異様に執着してしまった事により起こった悲劇であり、何にせよ子供が不憫でならない。



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★☆☆☆
・残虐度 ★★★★☆☆☆☆☆☆
・異常性 ★★★★★☆☆☆☆☆
・特異性 ★★★★★★★☆☆☆
・殺人数 2人

《犯行期間:1989年11月5日》