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ウォン・チーハン (マカオ)
【1935~1986】



1935年生まれのウォンは、10代の頃から札付きの悪であった。


犯罪を重ねていたウォンは、1973年、香港に住む資産家の家に押し入り、老夫婦を水のはった風呂桶に顔を押し付け、溺死させる。

その後、ゆっくりと金品を奪うのであった。


警察の手から逃れる為、ウォンは全部の指を火で焼いて指紋を消し、当時はまだポルトガル領であったマカオへ逃走した。


数年ほど日雇いの仕事を転々としていたが、その後、マカオ北部の中華料理屋で働き始める。

この中華料理屋のすぐ近くに「八仙飯店」があり、ウォンはその店の店主と、賭け麻雀を定期的に行う仲であった。


しかし、たびたび「八仙飯店」店主が、負け金をウォンに支払わない事があり、その事にウォンが激怒。

関係は悪化の一途を辿り、路上で2人掴み合いの喧嘩をするほどであった。


1984年8月、我慢の限界に達したウォンは、「八仙飯店」に押し入ると、中華包丁で店主の首をはねて殺害する。

そして、現場に居合わせた店主の妻と5人の子供など、全部で10人の首を切断して殺害した。

遺体を厨房に運ぶと、細かく切り刻み、胴体から取った人肉は、スープと肉まんの中に混ぜた。

余った手足はビニール袋に詰めて近くの海に捨てた。


翌日、ウォンは大胆な行動に出、地元の役所を言葉巧みに騙して「八仙飯店」の不動産を手に入れ、自らの手で店を切り盛りし始めた。

常連の客には

「博打のカタに権利取り上げた」

と説明し、その後、店を1年半に渡って営業し続けた。


1985年8月8日、マカオ北部の海岸に老人の手首2つが流れ着き、立て続けに男女の足や踵の一部が発見された。

当初、警察は遺体を人食いザメの被害に遭ったものだとして処理していた。


しかし、それから8ヶ月後の1986年4月、香港市警に一通の手紙が届く。

内容は
『親戚の一家が行方不明になり、商売敵だっなはずの男が店を乗っ取っている』
というものだった。


手紙を送ったのは殺された「八仙飯店」店主の弟で、すぐに肉片を鑑識にかけた警察は、遺体が行方不明の一家のものだと判明し、ウォンは逮捕された。


取り調べに対してウォンは、

「一家が引っ越したので、代わりに譲り受けた」

と主張する。


しばらくは不敵な態度で取り続けたウォンだったが、長引く獄中生活の中、次第に精神が破綻していき、言動がおかしくなっていった。

真夜中に急に

「やつらだ!」

と悲鳴を上げて目覚め、糞尿を漏らし撒き散らしながら、床の上で笑い転げた。

また、ある時は独房の壁を殴って腕の骨を折ったりした。

舌を噛み切って自殺を図ったこともあった (舌を噛み切ったら死ぬというのは俗説で、舌を噛み切った事で死ぬ可能性があるとしたら、失血死か、噛み切った舌が喉に詰まったことによる窒息死) 。


その後、精神病院のベッドの上で、ほぼ独り言のように全ての殺人を自供する。

そして、改めて起訴されたが、結局、精神が回復することはなく、その直後に、缶ジュースのプルトップで手首を切って自殺してしまった。


警察はウォンの自供をもとに、遺体の発見に尽力したが、肝心の頭部と胴体は最後まで見つかることはなかった。



∽ 総評 ∽

中華料理屋を殺害して乗っ取り、そのまま店を経営したウォン。

この事件を題材にした映画『八仙飯店之人肉饅頭』は、そのあまりの内容に、欧米の大半の地域で上映が禁止されたほどだ。

10人殺害しそのまま店を切り盛りし、しかも遺体がほぼ見つからなかった事により
「ウォンが人肉を来た客に振る舞った」
という噂が広まった。

結局、何人の客にどれくらいの人肉料理が振る舞われたのか、実際に振る舞ったのかは、本人がすでに亡くなっている為、真相はわからない。

しかし、こういった話しはよくある話しで、ほとんどが都市伝説である。

事件が明るみになった後、この店に食事に来ていた人達は、事件の後、どう思ったのだろうか。

考えるだけで恐ろしい。



【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★★☆
・残虐度 ★★★★★★★★☆☆
・異常性 ★★★★★★★★★☆
・殺人数 10人

《犯行期間:1984年8月》