
イアン・ブレイディ (イギリス)
【1938~ 2017】

マイラ・ヒンドレー (イギリス)
【1942~2002】
本名イアン・デュケーン・スチュアートは1938年1月2日、スコットランドのグラスゴーで、 喫茶店ウェイトレスをやっている母親の私生児として生まれた。
母親はブレイディの父親の事を、ブレイディが生まれる2ヶ月前に死んだジャーナリストだと言い、それ以上は語らなかった (実際にそうだったかは不明) 。
おそらく強姦によって生まれたと思われる。
母親は経済的な理由によりブレイディが私生児の汚名を被ることを憐れに思い、ブレイディを知人のスローン家に養子として出した。
スローン家での成長に従い、ブレイディは精神的な異常さを発揮し、癇癪持ちに育って行く。
自分の思ったとおりにならないと、異常なほど怒り狂い、壁に自分の頭を数回打ちつけるという行動に出る。
ブレイディはスローン家が自分の出自でないことを理解し、歪んだ精神状態になっていく。
ブレイディは頭も顔も良かったが、学校では好かれなかった。
13歳の頃から窃盗を始め、気が弱く身長の低さがコンプレックスだったが、頭は良く、読書好きでインテリだった。
ブレイディはただの読書好きレベルではなく、アドルフ・ヒトラーの『我が闘争』をドイツ語版で読みこなす実力をもっていた。
また、マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を読み、その思想にのめり込んだ。
ブレイディはナチの「優等人種優越説」にのめり込み、現実逃避していた。
以前掲載した、パトリック・マッケイやフレデリック・コーウェンもそうだが、ナチ思想に傾倒するシリアルキラーは多い。
精神の歪んだ危険人物からすれば、ヒトラー率いるナチスの思想は、大変魅力的なのだろう。
ブレイディは年下の子供や動物に対して虐待を行うようになり、16歳になると強盗や車泥棒の犯罪を始め、少年院送りになった。
その少年裁判で、ブレイディは育ての親であるスローン家の元を去り、実の母親を後見人として暮らすよう言い渡される。
1954年11月、17歳間近にブレイディはスローン家を去り、実の母の元に行く。
その時、母親は再婚し、マンチェスターに住んでいたが、母親は再婚の夫を説得し、同居することになった。
しかし、ブレイディは17歳の時、ストレンジウェイズ刑務所に入る。
1957年11月、ブレイディは刑務所から釈放されるとしばらくの間、アルバイトで食いつなぐが、それも短い間で終わり、マンチェスターにある会社の在庫管理事務員の職を得る。
ここで出会ったのが、マイラ・ヒンドレーであった。
ヒンドレーは1961年に秘書として採用され、もともと働いていたブレイディとヒンドレーはここで出会うのである。
マイラ・ヒンドレーは、1943年7月23日、マンチェスターのクランプサルで生まれた。
しかし、ヒンドレーを育てたのは、実の両親ではなく、祖母であった。
ヒンドレーの父親は、第ニ次世界大戦中は空軍のパラシュート部隊の英雄だったが、普段はただの酒乱で、ヒンドレーを殴った。
その暴力はヒンドレーの母親へも行われていた。
ヒンドレーが15歳の時、近所で親しかった少年 (13歳) が溜池で溺死する。
ヒンドレーはその少年と泳ぎに行く約束をしていたが、この日、ヒンドレーは行けなかった。
ヒンドレーは一緒に行っていたらその少年を助けられたはずだと自らを責め、その後、しばらく学業にも身が入らず、毎日静かに暮らしていた。
1957年、ヒンドリーは中学を卒業して電気工学会社の工員を経由し、1961年に化学会社にタイピストとして入社し、ブレイディと出会う。
ヒンドレーは一目でブレイディに惹かれた。
しかし、当初はブレイディはヒンドレーに冷たかった。
そして、ブレイディがヒンドレーをデートに誘った。
2人の最初のデートは映画を観るというもので、ブレイディはこのデートの間に、ヒンドレーに政治的思想を刷り込んだ。
また、ブレイディはヒンドレーにヒトラーとサド公爵の本を薦めた。
ヒンドレーには学歴がなく、内気な性格だった為、難しい本を読むインテリなブレイディに完全に虜になった。
ヒンドレーはブレイディの好みの洋服を着、ブレイディとの性交では、求めるあらゆる変態行為を受け入れた。
ブレイディは自分のやり方に心酔する支持者が現れたことで、自信を持ち、その増長は肥大化して行った。
ナチ思想とサド侯爵の悪の思想を受け入れたヒンドレーは、ブレイディの奴隷となり、サドマゾ行為に耽り、それを写真に撮っていた。
ブレイディは自分をヒトラーと同一視し、
「殺人とレイプこそ最高の快楽」
という思考に陥った時、ついに殺人を実行することとなる。
1963年7月12日夜、ポーリーン・リード (16歳) が、ダンスパーティに行く途中で誘拐された。
ブレイディがヒンドレーに言って連れ出させたのだが、もともとこのリードはヒンドレーの妹の友人だったので、騙して車に乗せるのは簡単だった。
ポーリーンは拷問とレイプを交互にされ、最後に喉を切られて殺された。
そして、ポーリーンは埋められた。
その間、ヒンドレーは家で1人でブレイディを待っていた。
1963年11月11日、ジョン・キルブライド (12歳) が、市場で姿を消した。
1964年6月16日、祖母の家を訪ねるはずのキース・ベネット (12歳) が姿を消した。
ブレイディはヒンドレーに、車に箱を積むのを手伝って欲しいと頼まれ、それを忠実に実行した直後に拉致られ、荒地の渓谷に連れて行かれ、ブレイディによって拷問とレイプを交互にされた後、最後に絞め殺される。
死体は渓谷に流された。
1964年12月25日、リズリー・アン・ダウニー (10歳) が、地域の青空市場から姿を消した。
警察の大々的な捜査にも関わらず、行方はようとして知れなかった。
1965年10月7日、ヒンドレーの妹婿のデヴィッド・スミス (17歳) が警察に義理の姉カップルの殺人を通報した。
スミスはもともとは町のチンピラで、腹の据わった男でもあったが、ブレイディの語るサディズムやナチズムの話を憧れを持って聞いていた。
ブレイディはヒンドレーに続く第2の協力者としてスミスを選んだのだ。
前日の10月6日、ヒンドレーはスミスを家に呼んだ。
この時、スミスは斧でエドワード・エヴァンズ (17歳) を叩き切っているブレイディを目撃した。
何度も切り付けられているにも関わらず、なかなか死なないエヴァンズの首を電気コードで絞めて殺した。
ブレディとヒンドレーは前の殺人と遺棄した場所の話をスミスに語った。
スミスは恐怖を感じ、殺されない為にその場で忠誠を誓った。
しかし、家に帰ってヒンドレーの妹である妻と相談し、翌朝、警察に出頭した。
警察はすぐさまブレイディの家を捜索する。
すると2階の寝室からスミスの通報どおりエヴァンズの死体が出てきた。
これを理由にブレイディは逮捕される。
逮捕されたブレイディは、すべての罪をスミスになすりつけようとした。
ブレイディの取調べの間、ヒンドレーは殺人への関与を否定し、身柄は拘束されずにいた。
ただし、警察はヒンドレーを監視していた為、ヒンドレーは証拠の隠滅もできなかった。
そして、警察はヒンドレーの車の中にあった誘拐と殺人の手順書と記録を発見する。
これによりヒンドレーも逮捕されることになった。
スミスから聞いた場所を捜索した警察は、1965年10月10日にレズリー・アン・ダウニーの裸の死体を見つける。
そして、その11日後にジョン・キルブライドの死体を発見した。
更に警察は家宅捜索をした結果、マンチェスター駅のコインロッカーに辿り着き、そのロッカーにはカセットテープがあった。
このカセットテープは実際に法廷で流されたのだが、そのあまりの内容に陪審員を唖然とさせる。
その内容とは、泣きながら許しを乞い、それでも容赦なく犯され、母を呼ぶダウニーの声が、ブレイディの射精の瞬間と、手淫して歓喜の声をあげるヒンドレーの声ととも録音されているという常軌を逸したものだった。
警察はリードとベネットの死体を発見できなかった為、ダウニーとキルブライド、エヴァンズの殺人にのみで訴訟に踏み切った。
1966年4月27日、2人は裁判において無実を主張した。
無罪を主張しているので、ブレイディもヒンドレーも後悔の念を表すことも謝罪の言葉を口にすることはなかった。
1966年5月6日、2人は揃って最低30年懲役の終身刑に処された。
その後、ヒンドレーは1997年12月、1998年11月、2000年3月の3回、仮釈放の申請を上げるが却下される。
ヒンドレーは、自分は社会にとってすでに脅威ではなく、当時の自分はブレイディに影響されて罪を犯したのだと主張した。
そして、この3回目の申請が却下されると、今度はヨーロッパ人権裁判所に提訴する。
そして、2002年5月、ヒンドレーの仮釈放申請は考慮されるべく下院が動き出す。
しかし、同年12月、ヒンドレーは心臓疾患及び気管支肺炎により、西サフォーク病院で死亡した。
60歳であった。
結局、ヒンドレーは約37年の間、刑務所での生活を過ごしたことになる。
自分はすでに脅威ではないと語っていたヒンドレーだが、あくまでも自己主張であって、正直微妙と言わざるを得ない。
そもそも、ブレイディとヒンドレーの凶行は、ブレイディ主体と思われがちだが、実はヒンドレーが指導権を握り、積極的に行っていた節がある。
殺人鬼として捕まった当初、当時の最高裁長官
フレデリック・エルウィン・ジョーズが、
「製陶工の手がこねる単なる粘土ではなかった (製陶工をブレイディに、粘土をヒンドレーに例えて言った言葉。製陶工であるブレイディが、容易にこねていた粘土であるヒンドレーは、普通の簡単に扱える粘土でなかった、という意味) 」
と語ったのだが、まさにその通りで、どちらかと言うとヒンドレーの方がブレイディよりも異常であった。
実はヒンドレーは、イギリスの刑務所史上2番目に長く懲役を過ごした囚人であった。
2017年5月15日、1985年以降拘束されていたマージサイドにあるアシュワース病院でブレイディは死去した。
享年79歳。
ブレイディは1966年の逮捕以降、約51年間刑務所に収監されていたが (病院での期間が長いが) 、これはイギリスの歴史上最も長い間刑務所で過ごした記録であった。
∽ 総評 ∽
「全英最凶の女」とも呼ばれたヒンドレーは、ブレイディとのコンビで10代の少年少女を強姦し殺害した。
この2人の起こした事件は、死体を荒地 (ムーア) に棄てた事から「ムーア殺人事件」とも呼ばれている。
この2人はまさに「火と油」の関係で、出会った事により更に凶悪さが増してしまった。
しかも、こういったカップルや夫婦による殺人を犯す場合、男の方が強姦などで主力となり、支配するものだが、この2人に関してはヒンドレーの方が凶悪度は高い。
しかも、自分が殺害を行ったのはブレイディの影響だと訴え、仮釈放を訴え続けた。
反省の色がなく、良心が欠落していた。
仮に、影響でそうなったとしても、ヒンドレーの義弟のように、すぐにその行為を警察に通報するのが筋だろう。
ブレイディと一緒になって仲良く凶行を繰り返したヒンドレーに、釈放を訴える資格はない。
【評価】※個人的見解
・衝撃度 ★★★★★★★★☆☆
・残虐度 ★★★★★★★☆☆☆
・異常性 ★★★★★★★★★☆
・特異性 ★★★★★★★★☆☆
・殺人数 5人以上
《犯行期間:1963年7月12日~1965年10月6日》
コメント
コメント一覧 (4)
情報ありがとうございます。
早速追加させて頂きました。
ついに死んだんですね。
これでやっと犠牲者や遺族が報われます。
それにしても、犯行に積極的に加担した上に証拠があるのにも関わらず、自分だけ罪を逃れようとブレイディに罪を擦りつけたり、図々しく仮釈放の申請を行うヒンドレーのクズさには反吐が出ます
残虐な事件ですね。
死刑反対派は所詮他人事なので言えるだけで、自分や大切な人が同じ目に遭ったら100%賛成になりますよ。
けど、そんなクズな人間も天寿を真っ当するんですからね、世の中不公平ですよ。