リディア・シャーマン (アメリカ)
【 1824 ~ 1878 】
リディア・シャーマン (旧姓ダンベリー) は、1824年12月24日、アメリカ・ニュージャージー州バーリントンで生まれた。
シャーマンは幼い頃に孤児となり、叔父で農家のジョン・クレイゲイに育てられた。
シャーマンは16歳の時に仕立て屋で働き始める。
17歳の時、メソジスト教会を通じてエドワード・ストラックと知り合う。
シャーマンは栗色の髪の毛、澄んだ青い目、アラバスターのような白い肌、スリムな体型という美しい女性に育っており、そんなシャーマンを見たストラックは一目惚れしてしまう。
ストラックはシャーマンと20歳以上離れており、3人 (2人とも) の子供がいたが妻とは死別していた。
ストラックは出会ってすぐシャーマンに結婚を申し入れ、シャーマンは承諾すると1842年に結婚する。
一家はニューヨークの125番街に定住し、ストラックは警察官として働いた。
シャーマンはストラックとの間に3人の子供を生んだ。
結婚生活は順調であったが、1863年にストラックが警察官の職を失うと、鬱病となってしまう。
ストラックは新たな仕事に就く事が出来ず、生活は一気に困窮した。
経済的に追い詰められたシャーマンは、ストラックに保険をかけ殺害する事に決める。
1864年、食べ物に殺鼠剤を混ぜ、それをストラックに与えて毒殺した。
ストラックの死は年齢もあり怪しまれる事はなく、シャーマンは保険金を手に入れた。
だが、死亡時に無職だったとはいえ、唯一の働き手を失い、わずかな保険金では今後の生活は困難であった (長男ジョンはすでに家を出て、ジョセフィンは1843年にわずか1歳で死亡していた) 。
将来に不安を感じたシャーマンは、末の子供3人を「何も出来ない役立たず」だと考え始末する事に決める。
そして、ストラック殺害からわずか6週間後、マーサ (6歳♀) 、エドワード (3歳♂) 、ウィリアム (9ヶ月♂) の3人をわずか1日で毒殺した。
当時、子供 (特に幼い子供) の死亡率が高く、1つの病気 (伝染病や流行り病等) で一家が全滅する事も珍しい事ではなく、その為、同時に幼い子供が死亡しても疑われる事はなかった (死因は腸チフスと記載された) 。
その後、シャーマンはコネチカット州へ移り、悲劇に見舞われたシャーマンに同情した医師が看護師の仕事を紹介し、働き始める。
1865年、看護師として働き始めて数ヶ月後、シャーマンは更に3人の子供を毒殺する (死因は同じく腸チフスとされた) 。
1867年、シャーマンは年上の裕福な未亡人の男性デニス・ハールバートと出会う。
ハールバートは若く (若いように見え) 魅力的なシャーマンに惚れ、結婚を申し入れる。
シャーマンは承諾し、ハールバートと結婚した。
結婚後、シャーマンは何事もなく過ごしていたが、年老いたハールバートが様々な病気にかかっている事に気付いた。
シャーマンは病気に苦しむハールバートを楽にさせてあげようと考える。
1870年、シャーマンはハールバートをヒ素で殺害し、3万ドル (当時の価値で約5000万円) の遺産を相続した。
遺産を相続してから8週間後、4人の子供の面倒を見てくれる女性を探していたホレーショ・シャーマンと知り合う。
シャーマンは子供の面倒を見る事となり、4週間以内にホレーショと結婚した。
だが、ホレーショは大酒飲みで、アルコールを飲んでは暴言を吐いた。
暴言の矛先はシャーマンだけではなく、生まれて間もない乳児の息子 (シャーマンの子供ではない) にも向けられた。
シャーマンは「赤ん坊が惨めな思いをするくらいならいっそ死んでしまった方がいい」と考えるようになる。
そして、赤ん坊のミルクに少量のヒ素を混ぜて殺害し、数ヶ月後にはインフルエンザにかかった10代の義理の娘を哀れに思い、同じように処分した。
愛する子供の相次ぐ突然死にホレーショはショックを受け、更に酒浸りになる。
ホレーショはアルコール依存症となり、財産を使い切ろうとした為、その事にシャーマンは怒りを覚えた。
1871年5月、シャーマンはホレーショのお酒にヒ素を混ぜて飲ませ、数日後、ホレーショは死亡した。
だが、今回のホレーショの突然死を地元の医師が不審に思い、検死を依頼した。
すると、体内からヒ素が発見された為、2人の子供の遺体のハールバートの遺体も掘り起こされた。
そして、いずれも同様の毒物が体内から見つかった。
1872年、逮捕されたシャーマンは証拠を突きつけられるが無実を主張した。
同年4月16日、シャーマンの裁判が始まり、裁判は8日間続いた。
シャーマンは黒いアルカパのドレス、ショール、手袋、薄いベールの付いた麦わら帽子を身につけ出廷した。
シャーマンは無実を主張したが、陪審員は圧倒的な証拠により有罪とし、終身刑を言い渡した。
タブロイド紙は事件を「世紀の恐怖」と大々的に掲載した。
シャーマンは逃走し、プロビデンスの裕福な男性の家政婦として働き始めた。
しかし、当局が1週間後、シャーマンを追跡し、逮捕してコネチカット州ウェザーズフィールドの刑務所へ送り返した。
再度、刑務所に収監されたシャーマンは、これまでの犯行を告白した。
しかし、ホレーショについては間違って殺鼠剤の入った箱を彼が掴んだと述べ、殺していないと主張した。
1877年、シャーマンは病気の振りをして逃亡し、4度目の結婚をするが、間もなく逮捕される。
1878年5月16日、シャーマンは癌により死去した。
享年53歳。
《殺人数》
11人以上
《犯行期間》
1864年~1871年5月
∽ 総評 ∽
『The Derby Poisoner (ダービーの毒殺者) 』、『The Wickedest Woman (邪悪な女性) 』、『Woman Monster (女怪物)』、『America's Queen Killer (アメリカの女王殺し) 』、『The Poisoner Fiend (悪魔の毒殺者) 』、『The Modern-Day Lucretia Borgia (現代のルクレツィア・ボルジア) 』等、様々な呼び名で呼ばれ毒殺の限りを尽くしたシャーマン。
不思議なのは20年近く普通の結婚生活を送っていたにもかかわらず、夫が無職となりうつ病になると役立たずとばかりに保険をかけて殺害した。
それまでそんな異常な様子はなかったのに (あくまで記録上ではあるが) 、20年以上連れ添った相手を容赦なく毒殺する。
情が一切なく、非常に恐ろしい女性である。
また、実の子供も小さ過ぎて役に立たないとして容赦なく殺す母性の欠片もない戦慄の犯行であった。
ただ、ホレーショは殺害していないと最後まで主張し、他の殺人は認めている事からホレーショ殺害は事故の可能性は高いといえる。
シャーマンが何故これ程の人物に育ったのかよくわからないが、美しいシャーマンには次々と男性が魅了されその都度餌食となってしまった。
見た目もかなり美しかったのだと思うが、薄幸で妖艶な様子が男性を虜にしたのだろうか。
「美しい薔薇には棘がある」とは昔からよく言われる言葉だが、シャーマンは棘では済まない究極の恐ろしい女性である。
コメント
コメント一覧 (10)
処刑じゃなくがんで自然死というのがはがいい。
ただ、どーせ死刑でも減刑されたりして自然死として刑死させれんのが今じゃ普通だけど。
病気で死なせるって完全に司法の敗北といえると思います。
今は仰る通り死刑判決でも処刑しないのが普通ですね。
同類の連中と比較しても長年連れ添った相手を用済みとばかりに始末したり我が子を足手まといと始末したりと冷徹さが恐ろしいですねホレーショは殺してないってのは本当かもしれないですが正直だからどうしたって思っちゃいましたね。
確かに食虫植物のような女性ですね。
そうですね。
だからどうしたですよね、今までの事を考えたら。
個人的に徹底的な冷徹具合は男性よりも女性の方が上のような気がします。
うまく藤のツルに化けて、だまされたトカゲやカエル、小鳥を捕まえて食べる映像が思い浮かびます。
雄だけじゃなく、子供まで共食いする雌蛇。
こんなのもう人間じゃないです。
私は女性の判断力や攻撃力はとんでもないものだと確信できます。
特に1回吹っ切れている女性は。
人間ではないですね。
ただ普通に何十年も結婚生活を送ってきて突然夫と子供を殺す神経がわかりませんね。
この瞬時に残酷になれるのが女性らしさのような気がします。
すぐに標的の男性見つけてますし、犯行もバレてないのがむかつきますね。美人って自覚あって犯行に及んでいたら一層怖いですね。
その可能性は高いですよね。
自身の魅力に十分気づいていてそれを最大限に悪用したのかもしれません。
何かで見た話ですが、綺麗な人だと罪が軽くなるといった話がありました。
陪審員や裁判官も人間ですので仕方ないのかもしれませんが、この女が死刑にならなかったのがそのためなら腹立たしいです。
簡単に脱獄しているし、色々甘いですよ。
残念ながらそれはありますね。
こう言ってしまうと差別だの偏見だの言われてしまいますが、綺麗な人の方が魅力がありますからね。