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エリック・ハインストック (アメリカ)
【 1991 ~      】



エリック・ハインストックは、1991年4月4日、アメリカ・ウィスコンシン州ラクロスで生まれた。

父親をショーン、母親をリサ・マリー・ブッケといった。

エリックが2歳の時、両親は離婚し、1995年12月にエリックの監護権を求めて法廷で争い、母親が監護権を得た。

エリック9歳の時、母親が養育費を支払わなかった為、母親の親権は裁判所命令により取り上げられた。

父親が再婚した事でエリックは父親夫妻に引き取られる。

しかし、父親は失業しており、障害年金を受け取っていた。


2001年9月、ソーク郡児童局はエリックを蹴ったとして家に呼ばれ、裁判所命令でエリックは父親夫妻から父親の祖母と暮らす事となった。


2002年4月、エリックは父親のもとへ戻るが、父親によって奴隷のように扱われた。

真夜中に突然掃除をさせられたり、壁に向かって鼻の先が壁に触れた状態で片足を上げて長時間立たされた。

また、寝室の隅に無意味に立たされる事も常だった。

エリックは前の学校で問題行動を起こし、また成績も比較的悪かった為、2006年、6年生の時に転校したウェストン高校で5年生として過ごした。

エリックはウェストン高校て約30人の生徒達からいじめを受けた。

その事を教員に告げるが、教員は何もしてくれなかった。

ある時、エリックは継母と喧嘩し噛みつかれてしまう。

それは咬傷跡が残る程であった。

また、シャワーを浴びる事が週で1回しか許されておらず、身体的衛生状態が非常に悪く、父親がエリックに買い与えた靴は適切なサイズではなかった。


2006年9月29日、エリックは両親が所有する.22口径のリボルバーと散弾銃を持って学校に向かった。

午前8時頃、学校に到着したエリックはショットガンを社会科の教師に向けた。

学校の管理人、デイブ・トンプソンがエリックと格闘となり、ショットガンを取り上げた。

その後、ジョン・アルフレッド・クラン校長が現れエリックと対峙した。

エリックはジャケットの内ポケットからリボルバーを取り出し、クランを数発撃った。

撃たれたクランだがエリックに掴みかかり、衝撃で床に倒れ込み揉み合いとなった。

そこに学校のスタッフと学生が駆け寄り、エリックを拘束すると警官が到着すると身柄を引き渡した。

撃たれたクランはリーズバーグエリアメディカルセンターで手術を受け、マディソンのウィスコンシン大学病院に運ばれた。

しかし、午後3時過ぎに撃たれた傷がもとで死亡した。

クランはエリックに撃たれた唯一の人物であり、勇敢に立ち向かった事で他に犠牲者を出さずに済んだ。

この事を表彰され、クランにはカーネギー英雄基金からカーネギー賞を受賞した。

エリックは警察にクランを傷つけるつもりはなく、いじめられている事について「彼に耳を傾けさせる」為であったと語った。

エリックは第一級殺人で起訴される。

刑務所に収容されたエリックは、ADHD (注意欠陥多動性障害) と診断された。


2007年8月2日、最低30年は仮釈放の可能性がない終身刑が言い渡された。

このウェストン高校銃撃事件が起こった前後では銃撃事件が相次いでいた。

この事件の16日前の13日にはカナダ・ケベック州でキムビア・ギルが銃を乱射し、1人が死亡、6人が重体となった「ドーソン・カレッジ銃乱射事件」、2日前の27日にはコロラド州でデュアン・ロジャー・モリソンが6人の女子生徒を人質にとって立て籠り1人を殺害した「プラットキャニオン高校人質事件」、3日後の10月2日にはコロラド州でチャールズ・カール・ロバーツが5人を殺害し5人を負傷させた「アーミッシュ高校銃乱射事件」がそれぞれ起こっている。



《殺人数》
1人

《犯行期間》
2006年9月29日



∽ 総評 ∽

エリックは15歳という年齢で銃撃の為に自身の高校へ向かったが、この手の事件では典型的な犯行であった。

エリックはいじめを受けており、その復讐の為に高校へ赴いたが殺したのは校長であった。

ただ、その校長にいじめについて話したが、それが最初から目的だったのか、本来いじめていた生徒を殺そうとしたのかわからない。

エリックは離婚した母親、父親それぞれと過ごし、父親との生活では凄惨な虐待を受けた。

まともに育てという方が無理な話であり、しかも、家庭だけではなく学校でもいじめられ完全に精神が破綻した。

だからといって犯罪は許されない事であり、犯行時15歳の少年に30年は仮釈放のない終身刑を下すアメリカ司法は素晴らしい限りである。