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クア・ハー (アメリカ)
【 1973 ~      】



クア・ハーは、1973年12月31日、ラオスで生まれた。

クアはモン族であり、その為一族の取り決めによりわずか13歳でタウ・ハン (この時19歳) と結婚する。

夫婦はタイの難民キャンプで生活を始め、1987年から1993年までほぼ毎年のように子供を生んだ。

その後、家族はアメリカ・ミネソタ州ツイン・シティーズへ移住する。

アメリカに来た当初は夫婦の関係は良好で、仲良く手を繋いで歩いている姿を近所の住人が目撃していた。

しかし、数年が経つと夫婦の関係が悪化していき、ことあるごとに争いを起こし、次第に暴力的になっていった。


1997年4月、クアはタウと口論となると、ショットガンを取り出しタウに向けた。

友人がクアに銃を置くよう説得した為、クアはショットガンを床に置いた。


同年5月、クアはタウに対して保護命令を裁判所に申し立て認められる。

クアはタウの移民許可証と社会保障カードを盗み、ボーイフレンドと一緒にミシガン州デトロイトへ移った。


1998年7月、クアが戻って来ると、タウはクアを暴行し逮捕される。


同年9月3日夜、クアは911に通報し、自身の6人の子供を殺したと話した。

警察官と救急隊員がクアのアパートに駆けつけると、コア・エイ・ハン (11歳♀) 、サムソン・ハン (9歳♂) 、ナリ・ハン (8歳♀) 、タン・ラン・ハン (7歳♂) 、エー・ハン (6歳♀) 、タンキー・ハン (5歳♂) の遺体を発見する。

警官らが駆けつけた時、クアは真っ赤な派手なドレスを着て戸口に横たわっており、すぐ後ろに6人の内の1人の遺体が見つかった。

検死の結果、子供達の死因は首を絞められた事による絞殺であった。

実は、警察は事件が起こるまでの18ヶ月の間に少なくとも12回は通報が入り家を訪れていた事がわかった。

その為、事件が起こる前に防ぐ事は出来なかったのかと意見が寄せられた。

また、そんな家庭環境の中にも拘わらず、児童福祉局は子供達が危険にさらされているという報告を1度も受けなかった。

警察は家庭内暴力によりアパートを何度も訪ねた事を認めたが、
「夫婦間の争いであり、子供達が危険さらされている兆候はなかった」
と述べた。

一家は長い間経済的に困窮し、クアは精神を病み鬱病であった事がわかった。

また、モン族という民族的背景や独特の文化、ツイン・シティーズでのモン族のコミュニティ内での問題等により家族の緊張が高まり犯行に至った可能性があると発表した。

クアの友人はクアは子供を愛していたが、若い時に結婚した事を後悔していたと話し、
「彼女は基本的に10代という人生で1番楽しい時期を楽しむ事が出来なかった。もっと人生を楽しみたいと思っていた」
と記者団に語った。

ただ、隣人のクリストファー・ヤンは、クアが子供達の面倒を見ておらず、子供達をアパートに置いて1人で出て行く事があったと述べた。


同年12月2日、最低33年は仮釈放の可能性がない懲役50年が言い渡された。

この事件はセントポール史上最悪の事件の1つとされている。



《殺人数》
6人

《犯行期間》
1998年9月3日



∽ 総評 ∽

モン族の人間がアメリカでの生活に苦労するのはこのクアだけに限った事ではない。

クアもそうであったがモン族の人間のほとんどが貧しく文盲であり、ストリートギャングとなる事が多かった。

「自由の国」と言われ世界の多くの人が憧れを抱くアメリカだが、黒人差別にみてとれるようにアジア人への差別も決して少なくない。

詳細がなくわからないが、おそらくクアやその家族も差別や偏見は大いに受けていた事だろう。

ただ、クアの場合はアジア人への差別というよりも、13歳で結婚を強いられたモン族の掟への反発だと思われる。

おそらくアメリカに来てその自由な環境に感化され、自分の人生を振り返り我に返ったのだと思われる。

だが、仮にそうだとして子供をしかも6人も殺す理由には当然ならない。