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ウォーレン・ブリッジ (アメリカ)
【 1960 ~ 1994 】



ウォーレン・ユージーン・ブリッジは、1960年7月3日、アメリカ・バージニア州フォーキア郡で生まれた。

母親が亡くなると、ブリッジと妹のジェニファーはジョージア州アルバニーで継父のビル・マシスに育てられた。

ブリッジは成長過程で人種差別的な環境で育ち、地元のレストランでレジ係として働き始めた。

しかし、ブリッジは薬物に手を出し麻薬所持で逮捕された。

また、生活の為にコンビニエンスストアや個人に対して強盗を行った。


1978年、ジョージア州で強盗で逮捕され、懲役15年が言い渡された。


しかし、1979年、保護観察付きで釈放された。

釈放されたブリッジはテキサス州へと移動した。


1980年2月10日、ブリッジは共犯者のロバート・ジョセフ・コスタとガリベストン郡にあるコンビニエンスストアに強盗目的で侵入する。

そして、24ドル (約2500円) を奪った後、ブリッジは店員のウォルター・ローズ (62歳♂) を4発撃った。


同年2月20日、ブリッジはコスタとモーテルにいた所を逮捕された。


同年2月24日、負傷して治療を受けていたローズが死亡した。


1981年2月26日、ブリッジには死刑が言い渡された。


1984年9月、死刑囚監房にいたブリッジは別の囚人を爆撃して負傷させ、1985年3月にも別の囚人を刺した。

襲われた2人とも黒人男性であった。

ブリッジがどのように武器を入手したかは不明であった。

ブリッジは刑務所にいる間、南軍の旗の刺青を入れた。

また、ブリッジは白人至上主義の刑務所ギャング、アリアンブラザーフッドと交流を深めた。

ブリッジは黒人を非常に憎んでおり、それは刑務所で更に強く現れた。

ブリッジの弁護士がアンソニー・グリフィンに代わると、グリフィンはブリッジの死刑執行停止を何度も申請し、しばらく執行を延期させる事に成功した。


1994年11月22日、ブリッジの死刑が執行された。

享年34歳。

ブリッジは最後の食事である白身魚フライ、ダブルミートチーズバーガーをお腹いっぱいに食べた後、家族に別れを告げ、継父に「じゃあね」と言った。

また、最後の言葉は、

「また会いましょう」

であった。


最後に死刑について語ったブリッジの言葉で終わりたいと思います。

「私はむしろ撃たれたい。私は横に (なって注射を撃たれる) なるよりも靴を履いたまま死にたい。絞首刑されたり古いスパーキー (電気椅子) に座ったりしたくありません。私は電気があまり好きではありません」



《殺人数》
1人 (他犯罪多数)

《犯行期間》
1980年2月10日



∽ 総評 ∽

ブリッジは黒人を嫌っていたが、何故それほどまでに嫌うようになったのかは詳細がなくわからない。

ただ、アメリカは大分ましになってきたといわれても今でも黒人差別は根強く、親や周囲の影響、生まれた場所により差別主義になるのはなんら不思議な事ではない。

この鬼畜は当然許されないとして、もっと許せないのは執行を引き延ばした弁護士だ。

本人は執行を引き延ばした事におそらく誇りを持っているのだろうがまさに便護士。

一体何が素晴らしい事なのか。

遺族からすればこの弁護士に恨みを抱きたくなるレベルの愚行である。