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劉 彭離 (リィゥ・ポンリー 中国)
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劉彭離は中国・前漢の五代皇帝劉武 (文帝) の三男として生まれた。

紀元前144年、劉武が崩御すると、劉啓 (景帝) が即位し、劉彭離ら劉武の子供たち5人は王に任命された (劉彭離は済東王) 。

しかし、傲慢で残酷であった劉彭離は、次々と殺人を繰り返すようになる。

『史記』を書いた司馬遷は、その著者の中で、
「彼はしばしは数十人の奴隷や若者を引き連れ略奪遠征に出た。そして法に隠れて残虐の限りを尽くし、人々から奪い殺した。それはスポーツ感覚で行われた。少なくとも100人以上の犠牲者が確認された。これらの殺人は全国的によく知られており、人々は夜に家を出るのを恐れた。結局、犠牲者の息子が皇帝と当局に彼の事を訴え、裁判所が彼の処刑を要求した。しかし、皇帝は自身の甥を殺す事に耐えられず、劉彭離は庶民となり竹山県 (現在の湖北省) へ追放された」
と記している。


紀元前116年、劉彭離の土地は没収されその土地は景帝によって開拓された。

劉彭離は歴史的な情報源により証明された世界で最も初期に存在した連続殺人犯の1人とされている。



《殺人数》
100人以上

《犯行期間》
紀元前144年?~紀元前116年



∽ 総評 ∽

司馬遷が書いた『史記』にその実在と詳細が記載された事で、劉彭離は歴史的に証明された最も古い連続殺人犯の1人とされている。

今から2000年以上前の話なので、存在や犯行の事実が100%正確とは言い切れない。

だが『史記』は司馬遷が基本的に事実のみを淡々と書き記しており、歴史書の中でも名著として名高い。

劉彭離も皇族という事でかなりムチャな事が出来た立場でもあったであろう。

ただ、こんな時代で100人以上殺害したと記されること事態が驚きを隠せない。

どの時代にも頭のおかしい異常者は存在するものだと痛感させられる。