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フェルディナンド・マルコス (フィリピン)
【 1917 ~ 1989 】



フェルディナンド・マルコスは、1917年9月11日、フィリピン・イロコスノルテ州で生まれた。

マルコスが生まれた時のフィリピンはアメリカの植民地であった。

父親はマリアノといい、弁護士にして国会議員であり、母親はホセファといい教師であった。

マルコスは4人兄弟の2番目であり、祖先には日本人、フィリピン人、中国人がいると言われる (詳細は不明) 。

マルコスは小学生の頃から賢く成績優秀であった。

ある日、マルコスが教科書を忘れた事があり、授業で教科書読みを当てられてしまう。

教師が誰かマルコスに教科書を見せるよう促すが、マルコスは全部暗記していた為、必要なかったという。

マルコスは弁護士を目指し、フィリピン大学に進学する。


1935年、マルコス18歳の時、マリアノが政治的に対立するナルンダサン議員に選挙で敗北する。

すると、間もなくナルンダサンが暗殺される。


1937年、マルコスはナルンダサン殺害容疑で逮捕される。

この事件はメディアでも大きく取り上げられ、マルコスはフィリピン全土にその名を知られる事となる。


同年11月、マルコスは有罪判決となり、刑務所に収監される。

マルコスは控訴し、裁判が終わるまでの間、刑務所で法学を猛勉強した。

その結果、司法試験にトップの成績で合格し、翌年には最高裁判所で無罪となり釈放された。

第二次世界大戦が勃発すると、マルコスは友人と共にアメリカ軍傘下のフィリピン自治軍の一員に加わり、日本軍と戦った。

戦争でのマルコスの活躍には諸説あり、自身は活躍について事細かに伝記に残しているが、ほとんど戦果を挙げなかったともいわれている。

ただ、アメリカ軍へ日本軍の情報を流す傍ら、アメリカ軍が不利となると日本軍に接近し、裏でアメリカ軍の情報を流していたとされている。

第二次世界大戦終了後、フィリピンが独立すると、マヌエル・ロハス大統領の補佐官を務め、1949年には下院議員に当選する。


1954年、ミス・マニラのイメルダ・ロムアルデスと出会う。

その美貌に一目惚れしたマルコスは、イメルダを口説き、出会いからわずか11日後に結婚した。

イメルダは社交界の花と呼ばれ、パーティーへの出席や有権者への接待を精力的に行った。


1959年、上院議員に鞍替えし、1962年から上院議長を務めた。

マルコスはフィリピン自由党に所属していたが、党代表の大統領候補になる為に国民党に寝返った。

マルコスは大統領選挙でセスナで各地へ赴き遊説し、また、100万ドル (約1億円) ともいわれる選挙費用を投入した。

マルコスの雄弁で説得力のある演説はマスコミに「アジアのケネディ」と紹介される程であった。


1965年12月30日、マルコスは第10代フィリピン大統領に就任する。

当時のフィリピンは東南アジアでもトップクラスの経済力があったが、その分、貧富の差が激しかった。

マルコスは道路建設や学校、病院を積極的に建設し、インフラ整備を行った。

この政策の結果、失業率は減少した。

また、国内産業の工業化や、アメリカや日本等、西側諸国と貿易を自由化した。

マルコスはアメリカと同盟関係を築き、歴代のアメリカ大統領と親密であった。

ベトナム戦争が起こると、アメリカ軍にとってフィリピンは軍事上重要な拠点となった。

アメリカ政府はマルコスに2年半で2億ドル (約200億円) の資金援助の約束を確約する (マルコスはその資金を自身の私腹を肥やす為だけに使用し、自身の資産にしたとされる) 。

マルコスは軍と警察を統合し政府で管理を行い、反対分子を抑える為に警察の武装強化を図った。

当初は政策や外交も一定の成果を見せていたマルコスであったが、贅沢品の購入、農村から都市への人口流入が増大すると、高インフレと失業率増加を招いた。

すると、学生運動に端を発した暴動や、国内で爆弾テロ事件が起き政情は不安定となっていく。

マルコスは暴動を共産主義の脅威だと国民に説明し、1972年9月21日にフィリピン全土に戒厳令を布告し、独裁体制が形成されていった (ただ、戒厳令布告自体は犯罪率の低下に繋がった) 。

マルコスは政権に対する反対派約200人を拘束すると、何千という多くの人がアメリカへ亡命し、反政府活動家たちも地方へ逃げた。

マルコスは報道の統制を行い、マスコミを弾圧した。


1983年8月、アメリカへ亡命していたベニグノ・アキノ上院議員がフィリピンへ帰国後、マニラ国際空港で暗殺されると、デモが更に激しくなる。

また、マルコスが腎臓疾患となり閣議を欠席するようになり、代わりに妻のイメルダが政務を取り仕切るようになる。

すると、側近たちの汚職が横行し、イメルダ自身も国の資金を毎日数万ドル使い散財に明け暮れる。

マルコス政権を支援していたアメリカのレーガン大統領もマルコスと距離を置くようになる。


1986年2月7日、大統領選挙が行われ、マルコスが大差で勝利したと発表する。

だが、この選挙はマルコスによる不正が行われた事が明らかで、野党のみならずアメリカ政府、カトリック教会 (フィリピンでは大きな力を持つ) から非難を浴びた。


同年2月22日、選挙結果に反対するエンリレ国防大臣、ラモス参謀長らが決起し、その決起に同調した100万人がマニラのエドゥサ通りを埋め尽くした。


同年2月25日、コラソン・アキノが大統領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿を包囲される。

マルコスはアメリカに一家を避難させる事を要請し、ヘリコプターで脱出を図るが意図しないハワイへ飛んで行き亡命した。


1989年9月28日、マルコスは亡命先のホノルルでイメルダに看取られなら病死した。

享年72歳。

マルコスは多額の国家資産を横領したとされるが、どれくらいなのかはっきりとわかっていない。

妻イメルダはマルコスと共に亡命し、夫亡きあとフィリピンに戻り、90を超えた現在も存命である。



《就任期間》
1965年12月30日~1986年2月25日



∽ 総評 ∽

マルコスは自身は賢く弁護士になる程であったが、大統領としては全くの無能であった。

就任当初は一定の政策により成果を挙げたが、すぐに綻びが生じ暴動やデモが起こってしまった。

また、国庫を自身の財産として私腹を肥やし、妻イメルダは贅沢を尽くしとされている。

ただ、それらに関しては実際の数値がわからず何ともいえない。

だが、暴動やデモが起こるくらいなので、国民は日頃から大いに不満を抱いていたのだろう。

マルコスは独裁者とされるが、正直、歴代の独裁者たちと比べて小物感は否めない。

大量虐殺や強引な政策、外交を展開して国民をそこまで追い詰めたわけではない。

だが、独裁者の1つのパターンとして、途上国で国民の無知を利用して好き勝手行う。

アフリカの独裁者にも多く見られる傾向だが、ずる賢い小物な情けない人間といえる。