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ドリュー・ピーターソン (アメリカ)
【 1954 ~      】



ドリュー・ウォルター・ピーターソンは、1954年1月5日、アメリカ・イリノイ州ボーリングブルックで生まれた。


1972年、イリノイ州ヴィラパークにあるウィローブルック高校を卒業後、アメリカ軍に入隊した。

高校でキャロル・ブラウンと出会い、後に結婚した。


1974年、デュパージュ大学に短期間通い、その後、バージニア州フォールズへ移動しそこで軍の警察官として訓練を受けた。

ピーターソンは警察官としてボーリングブルックで勤務し、1978年には麻薬取締部門を担当し、1979年には「年間最優秀警察官」の賞をもらう程優秀であった。


1980年、ピーターソンの不倫が発覚しブラウンと離婚する。


1982年、ピーターソンはヴィクトリア・コノリーと結婚する。

夫妻はロミオビルで一緒にバーを経営した。

しかし、ピーターソンは日頃から家庭内暴力を繰り返し、それはコノリーと娘 (17歳) に向けられた。

ピーターソンはコノリーに殺して事故に見せ掛けると脅した。


ピーターソンは会計士キャスリーン・サビオ (1963年6月13日生) と付き合い始め、1992年2月18日、コノリーと離婚した。


離婚して2ヶ月後の同年5月3日、ピーターソンはサビオと結婚した。

夫妻にはトーマスとクリストファーの2人の息子が生まれた。


2003年10月10日、ピーターソンとサビオの離婚が成立した。


同年10月18日、ピーターソンはホテルの受付係ステイシー・アン・カールス (1984年1月20日生) と結婚する。

夫妻にはアンソニー (2003年) とレーシー (2005年) 2人の子供が生まれた。

ステイシーはピーターソンとサビオの子供を合法的に養子にし、自分の子供のように扱った。


2004年3月1日、サビオの遺体が水のない浴槽で発見された。

死因は溺死であり事故として処理された。

しかし、2002年から2004年の間に警察がピーターソンの家に家庭内問題で18回も呼び出されている事がわかった。


2007年10月28日、ステイシーが失踪し行方不明となる。

ピーターソンはステイシーが別の男の元に行ったと説明した。

ステイシーの家族はウェブサイトを立ち上げステイシーの情報を募った。


同年11月、53歳の時に退職し、年7万9000ドル (約800万円) の年金が支給された (後に2016年に有罪となるまで続いた) 。

しかし、イリノイ州警察はFBIと協力し、ステイシー失踪の捜査を行う。

捜査の末、ステイシーが失踪する2日前にピーターソンが青いコンテナを購入しており、そのコンテナはステイシーの失踪後、突如としてなくなっていた事が判明する。

ピーターソンに尋問を行うが、コンテナの事は知らないと述べる。

警察は証拠の欠如の為、一旦ステイシー失踪についてピーターソンを追及する事を諦め、別件での逮捕を試みる。

そこで、目をつけたのがサビオの死であった。

サビオの死後の写真を改めて確認すると、背中、胴体、顔に大きな痣や擦り傷が確認された。

また、頭皮には原因不明な傷があり、裁判所はサビオの剖検を行うよう命じた。


2008年2月21日、サビオの死が殺人であると結論付けられた。


2009年5月7日、ピーターソンはサビオ殺害で逮捕された。

ピーターソンの保釈金は2000万ドル (約20億円) に設定された。


2010年7月21日、ピーターソンが2人の元妻を殺害した疑いがあると発表されるが、陪審が信用するに足る証拠はなかった。

しかし、裁判官は検察が「圧倒的な証拠」によりサビオとステイシー殺害を証明したと裁定した。


2012年9月6日、ピーターソンはサビオに対する計画的な殺人により有罪判決となった。


2013年2月21日、サビオ殺害で懲役38年が言い渡された。

ピーターソンはイリノイ州メナード矯正センターに収容されたが、1ヶ月以内にeBayで所持品を売ろうとした囚人に暴行を受けた。

結局ステイシー殺害では裁かれなかったピーターソンだったが、ステイシーが通う教会の牧師が、ピーターソンがサビオを殺害し、それを事故に見せかけたとステイシーに話していたと述べた。

また、ステイシーがピーターソンを常日頃から恐れていたとも話した。


2015年2月9日、ピーターソンは検察官ジェームズ・グラスゴーへの殺人未遂で起訴された。

ピーターソンはグラスゴーを殺害する為にヒットマンを雇っていたのだった。


2016年5月31日、ピーターソンは殺人未遂及び殺人の勧誘等で有罪となり懲役40年が追加された (合計78年となった) 。


2017年9月21日、ピーターソンは何度か控訴するがイリノイ州最高裁判所は判決を支持した。


2019年12月、ピーターソンは連邦政府の拘束から解放され、イリノイ州の施設に移された。

安全上の理由から場所については公開されていない。



《殺人数》
2人

《犯行期間》
2004年3月1日、2007年10月28日



∽ 総評 ∽

ピーターソンは確実な証拠がなかった為、逮捕や裁判が長引いた。

また、ステイシーについては有罪となり裁かれる事はなかった。

だが、判決ではステイシー殺害は認められなかったがピーターソンによる犯行でまず間違いないだろう。

ピーターソンは優秀な元警察官であったが、当然証拠隠滅や警察の行動は熟知していただろう。

その為、このような結果となったと思われる。

ただ、優秀な警察官がこのような犯行に及んでいたというのは非常に恐ろしい限りである。