_20200806_210051
ルドルフ・プレイル (ドイツ)
【 1924 ~ 1958 】



ルドルフ・プレイルは、1924年7月7日、ドイツ・エルツゲビルグスクラス地区ベーレンシュタインで生まれた。

父親は産業労働者で共産主義者であった。

父親がナチスにより逮捕されると、プレイルは家族と共にチェコのヴェイプルティに引っ越した。

9歳の時、プレイルは失業中の両親や妹の為にお金を稼がなければならず、国境密輸を行うようになり何度も逮捕された。

プレイルは学校に通わず、兄は早い時期に死亡し、姉はてんかんの為に強制的に不妊手術を受けた。

13歳の時、プレイルは売春婦と初めて性行為を行った。


1939年、15歳の時に家を出て肉屋で働き始めた。

しかし、数週間後に仕事を辞めた。

その後、エルベ川やオーデル川で船員として働き、違法事業に手を出した。


同年夏、南アフリカ共和国への商船の機械工として雇われた。

第二次世界大戦が始まると、プレイルはドイツ海軍に所属する。


プレイルは窃盗で逮捕され、懲役1年が言い渡されるが、1943年10月26日、てんかん発作の為に刑務所への収監は不向きとされ釈放された。

プレイルはてんかんに苦しみ、検査で不妊と診断された。

その後、プレイルは強制収容所で料理人として働き、猫を殺して食べるようになる。

ソ連赤軍の侵攻後、故郷に戻ったプレイルは警察官として雇われる。

プレイルは略奪作戦中にソ連兵士を射殺したが、次第に血を求めて殺人を犯したいと考えるようになる。

プレイルは若い女性と結婚するが、衝動を満たせない事を悟ったプレイルは犯行を始める。


1945年、プレイルは数人の殺人を犯し (証明はされなかった) 、営業担当者として働き始めるが結局解雇された。


1946年、プレイルはゼーブリッツからハルツ南部のゾルゲに引っ越した。


同年7月19日、ハルツ南部の端にあるヴァルケンリードとエルリッヒの間の森で、プレイルは女性 (25歳程度) を虐待し殺害した。

殺害にはハンマーを使用した。


同年8月19日、プレイルは共犯者のカール・ホフマン (1913年生) とバイエルン州ホフで、25歳の女性を貨物倉庫へ誘い込み、2人でよってたかって女性を殴り、最後は喉を切り裂き殺害した。


同年9月2日、プレイルとホフマンはベルゲンで25歳の女性と出会い、プレイルはフィールドストーンで女性を殺害し森に埋めた。


同年9月中旬、トラップシュタットで25歳の黒人女性と出会い、近くの森に誘うと殺害し、所持品を盗んだ。

殺害後、首を切断した。


同年11月、プレイルは国境を越えようとしていた若い女性を手助けしたいと案内を申し出た。

しかし、森の中を歩いている時にてんかん発作に苦しんだ (その為女性は殺されずに済んだ) 。


同年12月12日、プレイルは共犯者のコンラッド・シュスラーとノルドハウゼンで55歳の未亡人をクラブで襲い、殴って所持品を奪った。

だが、女性は何とか生き残る事が出来、後の裁判では決定的な証人となった。


同年12月14日、フィーネンブルクでプレイルはシュスラーの目の前で37歳の女性をガードブースに叩きつけて殺害し、井戸に投げ捨てた。


同年12月19日、プレイルは44歳の女性を殺害して井戸に捨てた。


1947年1月16日、プレイルとホフマンはアッベンローデとシュタペルブルグの間を走る道路の近くで20歳の女性を殺害する。

殺害後、死体を川に投げ捨てた。


同年2月中旬、プレイルはデュダーシーベン近くの森で49歳の女性を殺害し、死体はホフマンが奪った。


同年3月初め、プレイルとホフマンはゾルゲ近くでホフマンが女性をナイフで殺害し、プレイルが頭部を切断した。

女性は後に発見されるが、イギリス人である事がわかった。


同年4月18日、ハンブルクの実業家ハーマン・ベネン (2人目の男性の犠牲者であった) を殺害し、解体されたベネンの遺体が発見された後、逮捕された。

その後、共犯者のホフマンとシュスラーも逮捕された。

プレイルはお金を払って (違法に) 東西に移動させる手助けをするといって女性を誘惑し、殺害していった。

プレイルは1946年から1947年の間にホフマンとシュスラーと協力し、少なくとも12人の女性を拷問の末殺害した。

ただ、プレイル本人は1945年から犯行を始め、これまで25人殺害したと告白した。

プレイルの犯行がこれ程続けられた要因は、第二次世界大戦直後の混沌とした時代という事と、丁度この頃、プレイルが犯行を行った地域で13人の警察官が殺害されていた。

その為、警察官不足と捜査は1人ではなく複数人で行っていたのも原因であった。


1950年10月31日にプレイルの裁判が設定されるが、その前にすでに過失致死罪ですでに懲役12年が言い渡されていた。

裁判ではプレイルの犯行は酔って行われたと認定され過失致死罪で有罪となった。

仮に殺人で有罪判決となっていた場合、死刑になっていた。


同年11月17日、プレイルは9件の過失致死で有罪となり終身刑が言い渡された。

プレイルは25人の殺人を主張しており、自身をフリッツ・ハールマンよりも1人多く殺害した「ドイツ最大の殺人者」と自称した。


1958年2月16日、プレイルは独房で首を吊って自殺した。

享年33歳。

共犯者のホフマンとシュスラーも終身刑となった。

ホフマンは1976年に刑務所で死亡し、シュスラーは1970年代後半に恩赦となり釈放されている。



《殺人数》
12人 (本人は25人と自供)

《犯行期間》
1946年7月19日~1947年4月18日



∽ 総評 ∽

『The Deathmaker (死の創造主) 』と呼ばれ、女性を多く殺害したプレイル。

プレイルの犯行は主に強盗によるものであった。

しかも、当時のドイツは東西に分かれており、プレイルは東ドイツから西ドイツへ移動する手助けをするといって女性を騙して殺害するという非情振りであった。

プレイルは25人殺害し、かのフリッツ・ハールマンを抜き「ドイツ最大の殺人者」と自慢した。

ハールマンは24人殺害したので確かにハールマンを抜くが、ただ、カール・デンケは30人以上、ゲオルグ・グロスマンは50人以上とされている。

ただし、デンケもグロスマンも確実な数ではなく、ハールマンは24人殺害で有罪判決となっているので確実な数で比べたのだろう。

ただ、自身も9件しか有罪判決となっておらず、それならデンケやグロスマンと何ら変わらない。

プレイルは最後自殺したが、このまま何十年も刑務所で飼い続ける事を考えれば非常に良い事である。