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マーティン・グロスマン (アメリカ)
【 1965 ~ 2010 】



マーティン・エドワード・グロスマンは、1965年1月19年に生まれた。

グロスマンは1人っ子であり、幼い頃から精神的及び肉体的に病気であった父親と叔父の世話をしなければならなかった。

その為、グロスマンは中学3年で学業を終えた。

15歳の時、父親が亡くなり、すぐに叔父が、そして、祖父が死亡した。

立て続けに親や親戚が亡くなった事でグロスマンは精神的に追い詰められ、深刻な鬱病となった。

すると、アルコールやマリファナ、PCP (フェンサイクリジンの事で静脈注射をする事で作用を発揮する解離性麻酔薬) など様々な薬物に手を出し始めた。

また、母親の薬棚から処方薬であるバルビツール酸 (中枢神経系を抑制する薬) やジアゼパム (バリウムの事で鎮静効果をもたらす) を服用した。

グロスマンは元ガールフレンドの家に強盗目的で侵入し、逮捕される。

グロスマンには不法侵入や窃盗で有罪判決となり、保護観察処分となった。


1984年12月13日、アメリカ・フロリダ州ピネラス郡の森林地帯に、グロスマンと17歳のセイン・テイラーが車で向かった。

すると、野生生物担当官マーガレット・ペギー・パーク (26歳♀) が不審な2人を目撃し、接触する。

グロスマンは銃を所持しており、パークはグロスマンの銃と身分証を没収した。

パークが保安官事務所に電話を掛けようとすると、グロスマンは電話を掛けないよう懇願した (武器の所持は保護観察違反であった) 。

しかし、パークは無視して電話を掛けた為、グロスマンは懐中電灯でパークの頭と肩を殴り、テイラーもパークを殴った。

パークは殴られたが銃を引きグロスマンとテイラーへ向けて威嚇射撃を行った。

しかし、グロスマンは自身の大柄な体型を活かしパークに飛び掛かると、パークを圧倒する。

そして、銃を奪うとパークの後頭部を撃って射殺した。

グロスマンとテイラーはパークの銃を奪って逃走するが、パークは電話した際殴られた事を告げていた。

2人は友人と接触した後、逮捕された。


1985年12月13日、グロスマンは第一級殺人で、テイラーは第三級殺人で有罪判決が下された。

グロスマンは死刑が言い渡され、テイラーは懲役7年が言い渡された (テイラーは2年10ヶ月後に仮釈放されている) 。

グロスマンの弁護士は裁判が不適切に行われたと主張した。

しかし、アメリカ最高裁判所は裁判は適切に行われたと弁護士の主張を退けた。

すると、今度はグロスマンのIQが77しかなく精神遅滞であると主張した。

しかし、グロスマンが精神遅滞かどうかはしっかりと立証されてないとしてこの主張も退けられた。

グロスマンの処刑が2010年2月16日に決まった。


処刑当日までに集まった電話や電子メール、手紙約5万件近くが知事のオフィスに届き、グロスマンの処罰に対する寛大さを要請した。

それは教皇ベネディクト16世、ホロコーストの生存者であり作家のエリ・ヴィーゼル等、200人以上の著名人がもまれた。

しかし、フロリダ州知事はそれらの誓願を無視し、グロスマンの処刑を指示した。


2010年2月16日午後6時、致死量の注射による死刑が執行された。

享年45歳。

グロスマンの処刑はパークの母、姉、弟が見届けた。

グロスマンは処刑前のスペシャル・ミールを求めなかったが、刑務所の食堂でチキンサンドイッチ、フルーツパンチの缶、バナナクリーム、ピーナッツバターのクッキーを購入して食べた。

また、最後の声明は

「犠牲者の家族に心から反省を述べたいと思います。私は事件の事は覚えていませんがその夜起こった全ての事について後悔しています」

であった。

グロスマンの死刑執行は、2010年にアメリカで執行された7人目であり、1976年に死刑が復活して以降、1195人目であった。

また、2010年にフロリダ州で執行された1人目であり、1976年に死刑が復活して以降、69人目であった。



《殺人数》
1人

《犯行期間》
1984年12月13日



∽ 総評 ∽

グロスマンは親や親戚が相次いで死んだ事で精神的に追い詰められ鬱病になったとされている。

家族の度重なる死はショックだが、だからといってアルコールや薬物に溺れ犯罪を犯していいという事は当然ない。

グロスマンは保護観察中に違反を犯し、それを通報しようとした女性を殺害するという身勝手極まりない鬼畜であった。

ただ、グロスマンも許されないが、そんな鬼畜の死刑判決を意義を唱える多くの偽善者たちである。

他国が決めた判決に全く関係ない部外者がいちいち口を出すなと言いたい。