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フロリスヴァルド・オリヴェイラ (ブラジル)
【 1958 ~ 2012 】



フロリスヴァルド・デ・オリヴェイラは、1958年11月18日、ブラジル・ウチョアで生まれた。

カタンドゥバで育ったオリヴェイラは「カボ・ブルーノ」というニュクネームで呼ばれた。

オリヴェイラは幼少の頃から暴力的であった。

そんなオリヴェイラは警察官として働き始める。

オリヴェイラは「死の部隊」と呼ばれる部隊を率いたが、この部隊は過激で容赦ない部隊として有名であった。


そして、オリヴェイラは多くの目撃者によって20人以上の殺人で告発される。

ホセ・アパレシド・ベネジットはオリヴェイラに狙われ、死んだふりをしてその場をしのいだ。

ベネジットは唯一の生存者となったのだが、このベネジットの証言はオリヴェイラの過激な犯行を世に知らしめる重要なものとなった。


1983年9月22日、裁判所命令によりオリヴェイラは逮捕された。

また、2人の高官を含む少なくとも12人の警察官がサウスゾーンでの複数の死に責任があると推測された。

調査を行った捜査官は、処刑された多くの犠牲者が、外見に基づいて行われたと発表した。

手首に小さな十字架の刺青があったという理由で殺された少年や、犠牲者の多くが切り下げ前髪であった事からオリヴェイラがそれを嫌っていたと推測された。

オリヴェイラによる処刑は1982年から1983年の間に行われたのだが、ほとんどの犯行が1982年に行われた。

数年後、オリヴェイラは約20人の処刑を認めたが、結局主にサンパウロ州郊外で行われた処刑は50人であった。

裁判でオリヴェイラには禁錮113年が言い渡された。


1991年5月30日、3度目の脱獄を行い逮捕されると、ホセ・アウグスト・セザール・サルガード刑務所に収監された。


2008年7月、オリヴェイラは刑務所で牧師となり、ボランティア活動をしていた女性と結婚した。

結婚相手はオリヴェイラの信奉者であった。


2012年8月22日、タウバテ裁判所はオリヴェイラの刑期を27年へと短縮され、すでに刑期を務めているとして釈放となった。

裁判官がオリヴェイラが模範囚で危険性が低いと判断し、自由が制限されての解放であった。


同年9月26日午後11時30分頃、オリヴェイラはサンパウロ州ピンダモニャンガバで、18~20回もの発砲により射殺された。

享年53歳。

オリヴェイラは撃たれた時親戚といたのだが、親戚は無傷であった。

親戚は
「徒歩で現れ2人の男性が彼を撃った」
と話した。

警察は捜査を行うが結局犯人は逮捕される事はなかった。

警察は
「おそらく処刑だったと思われる」
と述べている。

オリヴェイラはその場で死亡が確認された為、病院に運ばれる事はなかった。

余談だが、オリヴェイラは絵の才能があり、それは刑務所にいた時に展覧会が開かれる程であった。

また、オリヴェイラ死亡後、描いた絵は家族によって競売にかけられた。



《殺人数》
50人

《犯行期間》
1982年~1983年



∽ 総評 ∽

『Cabo Bruno』と呼ばれ、「警察の記録で最も物議を醸した人物」とも言われた。

オリヴェイラは警察官として犯罪者を取り締まる立場であるが、そんな人間が関係ない人間を次々と射殺した。

殺害された50人の中に犯罪者やその関係者が1人もいなかったのかは詳細がなくわからない。

ただ、少なくとも目撃者がいて始めに告発された20人は無関係な人間だったと思われる。

凶悪な犯罪者を職務と称してその場で処刑してくれるのは大いに結構だが、全く無関係な相手を手にかけるというのはもっての他である。

処刑した理由も外見が気に入らないというものなので、とても許されるものではない。