_20200328_200803
ポル・ポト (カンボジア)
【 1928 ~ 1998 】



カンボジアのトップとなったポル・ポトだったが、アメリカのような民主主義は金や娯楽により社会を腐敗させる要因となるだけだと考えていた。

そこでポル・ポトが目指したのは「原始共産制」であった

それはカンボジアの山岳先住民族の自給自足の生活を理想とする極端な重農主義・農本主義であった。

また、毛沢東の思想の影響も受け、それは毛沢東の死により一層加速していく。

ポル・ポトは理想実現の為、学校や病院、工場を閉鎖し、銀行業務どころか貨幣をも廃止した。

都市に住む住民を農村に強制移住させると農業に従事させるが、中国の人民服のように黒い農民服を着用させた。

強制移住は子供、高齢者、病人、妊婦等、長距離移動に厳しい弱者に対しても容赦なく、配慮や遠慮は皆無であった。 

しかも移動は長距離で、1度だけではなく2度3度と行われる事もあった。

その為、移動に耐え切れず死亡する人間が後を絶たなかった (移動中に出産した女性も多くいた) 。

国民は自動車やバイクを所有する事を禁じられ、移動手段は徒歩を強いられた (ポル・ポトは黒いメルセデス・ベンツを公用車に使用していた) 。

文明の利器を徹底的に排除し、その為、運河やダムの灌漑施設は手作業で行われた。

強制移住までさせ農業で出来た米は武器調達の資金にする為に海外に大量に輸出された為、国内で米が極端に不足し、国民が栄養失調、飢餓に襲われ多くが死亡した。

ポル・ポトはそれらの状況をしっかり把握した上で、自身の強引な政策が失敗の原因ではなく、政府内部に裏切り者やスパイが潜んでいる為だと考える。

その為、ポル・ポトは猜疑心を強めていき、それは大量虐殺へと繋がっていった。

ポル・ポトは高学歴やインテリ層ら高度な知識や教養を持つ人間は自身の政策の弊害になると考え排除していく。

ポル・ポトは、

「国の発展には教師や医者、技術者の力が必要だ」

と言って海外へ渡航している者まで集め、次々と虐殺していった。

そして、それは次第に高学歴やインテリではなくただの大人に向けられる。

文字が読める、時計を見る事が出来る、といった普通の事や、少しでも学識があると思う人物はもちろん、眼鏡をかけているという理由だけで殺害された者もいた。

ポル・ポトは旧文化や宗教、家族といった集団や枠組みが自身に反逆すると考えそれらを解体した。

イスラム教を信仰する少数民族には強引に豚肉を食べさせ (イスラム教では豚肉を食す事を禁じられている) 、しかも豚を飼育させた。

農業をしない仏教の僧侶を「寄生虫」と呼び、強制還俗させ宗教を弾圧した。

また、自由な結婚や恋愛を禁止し、子供を親から引き離し10代前半の少年を奉仕させた。

常に人を疑い大人を信用していなかったポル・ポトは、純真無垢な少年ばかりを重用した。

大人は悉く殺害されていった為、国内の人材不足は深刻になり、医師までも少年が務めるという末期な状況となった。

こうして1975年から1979年の間に最低でも150万人以上 (一説には300万人) が虐殺された (殺害数には諸説あり、国や機関によってまちまちである。また、どこまでを虐殺とするかで意見が別れる。ポル・ポト時代は75万人程度であったともいわれる) 。

特にツールスレン地区にある高校校舎の建物に出来た収容所、通称「S21」での拷問・処刑はすさまじいものがあった。

収容所では「質問されるままに答えよ」「言い訳して事実を隠すな」「異議を唱える事は厳禁」「質問に即答せよ」「鞭打ちに叫び声を上げてはならない」等という尋問規則があり、ありもしない罪を激しい拷問によりでっち上げた。

また、拷問の際に何も吐かずに死亡させてしまうと看守も同罪とされ粛清の対象となった為、必死に拷問し無理やり吐かせた。

「S21」に収容された1万4000人 (2万とも) の内、生きて出て来れたのはわずか7人という凄惨なものであった。

ポル・ポトの猜疑心は政権幹部にも向けられ、意見が違う者を全員反逆者とみなした。

フー・ユオン内相やチャン・チャクレイ軍参謀次長、副首相や農業相、情報宣伝相や駐ベトナム大使、幹部や弟子まであらゆる政府関係者が拷問・粛清されていった。

その為、幹部たちはポル・ポトの顔色を伺うようになっていった。


1977年、ポル・ポトはベトナム侵攻を開始し、度重なる越境攻撃を行い原住民を虐殺する。

だが、この行為がポル・ポト政権を破滅へと導いてしまう。


1978年12月25日、ベトナム軍の反撃が始まり、ベトナム国内に避難していたカンボジア人によって構成されたカンプチア救国民族統一戦線がベトナムの支援を得てカンボジア国内に侵攻した。

カンボジア・ベトナム戦争の始まりだが、ポル・ポトが大量に大人を虐殺した事や多くの幹部の粛清により指揮系統はとっくに破綻しており、1979年1月4日、たった10日でベトナム軍がメコン川東岸の7州を占領する。


同年1月7日、ベトナム軍が首都プノンペンを占拠し、ヘン・サムリン政権が成立した。

プノンペンを追われたポル・ポトとその一行はタイの国境付近のジャングルへ逃れるが、反ベトナム・サムリン政権との武装闘争を続けた。

ベトナムやソ連と敵対していたポル・ポトはタイやアメリカから支援を受けた。


1989年、ベトナム軍がカンボジアから撤退すると、1993年、国連監視下においてカンボジア国民議会選挙により立憲君主制が採択された。

ポル・ポトはこの選挙には参加せず、その後も新政府と戦い続けた。


だが、1997年に腹心の裏切りにより逮捕される。

裁判で虐殺について問われるとポル・ポトは、

「あれは虐殺ではない。民族浄化の為の粛清だ!」

と声高らかに述べた。

ポル・ポトは自宅監禁 (終身禁錮刑) を宣告された。


密林地帯に連れて行かれたポル・ポトは、1998年4月15日、心臓発作で死去した。

当初は死因はわからなかったが、遺体の爪が変色していた事から毒殺、もしくは自ら毒を飲んだ可能性が高いとされた。

遺体は古タイヤと一緒に粗末に焼かれ、そのままその場に埋められた。

火葬に立ち会ったのは後妻とその間に生まれた娘であった。

2人は
「世間が何と言っても私達にとっては優しい夫にして父でした」
と語っている。

歴史家やジャーナリストはポル・ポトを「虐殺の暴君」と称し、イギリスの社会学者は「冷戦時代の最も純粋な虐殺者」と表現している。



《虐殺数》
最低150万人以上 (300万人の可能性あり)

《虐殺期間》
1975年4月17日~1979年1月7日



∽ 総評 ∽

最低でも150万人以上、一説では300万人の国民を虐殺したポル・ポト。

ポル・ポトはヒトラー、スターリン、毛沢東と並び「世界四大虐殺者」の1人とされている。

だが、虐殺数を推定数値だけで見ると、毛沢東の7000万人、スターリンの5000万人、ヒトラーの1100万人と比べて少ない方である。

ただ、当時のカンボジアの人口は800万人であり、300万人虐殺したとすると全人口の37.5%にあたり、人口比でいうと4人の中ではダントツで他に類をみない。

また、他の独裁者同様に寺院や文化遺産の破壊を行った。

しかも、それをポル・ポトはわずか3年8ヶ月程度で行うという鬼畜振りであった。

ポル・ポトは民主主義は金や娯楽で社会を腐敗させると考えたが、確かに言っている事に一理はある (だが一長一短ある数多くの政治体制の中で、民主主義が最もバランス良くデメリットの少ない政治体制だと個人的には思う) 。

ポル・ポトは猜疑心を募らせ疑心暗鬼から虐殺に至ったが、これは能力のないトップにありがちな思考と行動といえる。

歴史的にみればこういった皇帝や王は多く珍しいという事はないが、これがたかだか40年程前に行われたというのが驚きを隠せない。

しかも、歴代の王や皇帝は疑心暗鬼や猜疑心から部下は殺害するが基本的に国民は虐殺していない。

そういう点からしてみてもポル・ポトは異常である。

ポル・ポトは自身の地位を少しでも脅かしそうな人間を排除していったが、それは本人が無能だからである。

自分に自信がないからそういった思考・行動に出る。

ただ、学者や医者のような知識人だけ殺害するならまだしも、眼鏡をかけている奴はインテリだといって殺害するのはもはや理由にもなっておらず、思考は猟奇殺人犯と何らかわりない。

ポル・ポトは自分の意見に素直に従い反抗もせず、地位を脅かさない子供しか信じなかった。

その為、虐殺時のカンボジア国民の内、85%が14歳以下という国として異常な状態であった。

そんな国が長続きするはずもなく、攻められるとすぐに瓦解し、ポル・ポト政権は4年も経たずに終わりを告げた。

国民に無惨に殺害されても何の文句もいえないここまでの事をやって来た鬼畜でさえ、チャウシェスクとは違い最後は天寿を全うした (毒殺された可能性はあるが) 。

まさに「天道是か非か」である。

個人的に身勝手さ、残虐さ、虐殺数など総合的にみてポル・ポトが歴代の独裁者の中で「最悪」だと思っている。