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ランディ・ロス (アメリカ)
【 1954 ~      】



ランディ・ロスは、1954年12月26日、アメリカ・ノースダコタ州ビスマルクで生まれた。

父親をゴードン、母親をリザベスといい、ロスは5人兄弟の1人であった。

家族は1950年代後半にノースダコタ州からワシントン.D.Cへ移った。

ロスは父親と母親を尊敬し、素晴らしい人間だと話すが、後に殺人で有罪判決を受ける兄のデイビッドは、父親は虐待的であり、母親はそんな父親に協力的であったと話した。


家はカトリック教であったが、1971年、両親は離婚した。


1973年、高校を卒業したロスは海兵隊となった。

ロスは以前働いていたガソリンスタンドを襲うが起訴されなかった。

ロスは戦闘機に乗って戦闘が出来る思っていたが、実際は沖縄でファイル係であった為、軍隊に失望し、結局1年で軍を辞めた。

その後、テリー・カークランドという女性と婚約する。

しかし、ロスが別の女性と浮気した為、カークランドはロスと別れる事にしたが、カークランドの両親の家がロスに奪われてしまう。

カークランドは警察に家を奪われた事について話し、また、ガソリンスタンド強盗事件についても以前ロスが話していたと訴えた。

ロスは2週間刑務所に入り、釈放後、ドナ・サンチェスという女性と結婚する (サンチェスは1978年に息子グレッグを産むが、ロスから何の説明もないまま離婚を申し立てられ親権も奪われている) 。


1977年、ロスは逮捕され起訴される。

容疑は少女に対する殺人であった。


裁判は1979年11月から1980年3月まで行われたが、ロスや母リザベス、妹たちが法廷で何度も大声で喚き散らした為、裁判は混乱し何度も中断せざるを得なかった。

ロスは終身刑を宣告され、刑務所に収監された。

すると、リザベスは司法制度を非難し、メディアに露出するとロスの無実を切実に訴えた (後にリザベスは夫は息子に厳格で虐待的であり、ロスが他人への共感が欠けて育ったのは自分の責任ではないと主張している) 。

ロスは少女の名前すら知らないと主張し、また、少女の親や友人誰1人現れなかった為、犠牲者は身元が不明のままであった。

ロスは極端な女性嫌悪を抱いており、従順で反抗しない女性のみを好んだ。

また、元ガールフレンドによると、ロスはいじめっ子であり、それは残酷なもので楽しんでいたと述べた。


1981年、ロスは同じく離婚して1人の子供がいるジャニス・ミランダと出会い、わずか3ヶ月で結婚する。

ロスはミランダに家族で住む家を買う事を提案する。

そして、最悪な事態が起こった場合、住宅ローンを支払う為に生命保険に入るようミランダを説得した。

ミランダはロスの提案を受け入れ、高額の生命保険に加入するが、ミランダの友人はロスを信用出来ず、警戒するようミランダに話した。


同年11月27日、ロスとのハイキング中にミランダが急死する。

ロスの説明ではハイキング中にミランダが転落して頭を打ったと述べたが、ロス以外、誰もミランダの転落を目撃したものはいなかった。

しかも、転落について話す事が人によってコロコロと変わり話が矛盾していた。

警察と救助隊員は転落の通報を受け、数時間後に現場に駆けつけるが、ロスが事故が発生したと主張した場所から転落する事は事実上不可能であると判断された。

ロスがミランダを故意に押して転落させたと推測されたが、起訴と裁判を行うには十分な証拠はないとして逮捕される事はなかった。

ロスはミランダを土葬ではなく火葬するよう手配し、翌朝早く生命保険に請求する。

そして、ミランダの家族に連絡するが死んだ事は告げなかった。

また、ミランダの娘ジャリーナを養子にする計画を立てるが、ミランダは自分に何かがあった場合、娘をテキサス州の家族に引き取られるよう手配していた為、ロスの希望は叶わなかった。

事件から2ヶ月後、警察官がロスにインタビューを行うが、特に何の情報を得る事もなかった。

ミランダが死んでから2年半後、ロスは機械工として働き、ワシントン州マウントレイクテラスに引っ越し息子と暮らしていた。

ロスは隣人のベン・グッドウィンとその家族と友人となる。

その後、ロスとグッドウィン家族は6年間、仲良く生活を続けたが、グッドウィンの10代の娘ブルターニュを密かに誘惑し、18歳になった時に結婚の約束をする。

ロスはグッドウィンに海兵隊の一員としてベトナムへ赴いた事があると話していたが、ベトナムで獣医として従軍した事があるベンはロスの話を疑った。

また、グッドウィンはロスが年齢を話さない事に疑問を抱いていた。


1985年、ロスは子供を持つバツイチの女性ドナ・クラフトと結婚する。

しかし、ロスは相変わらず年齢や矛盾した自身の過去についてほとんど何も語らなかった。

ロスはクラフトの3歳の娘に意地悪なジョークを行い、娘の法廷後見人になる事を相談するがクラフトが拒否した。

クラフトはロスが家にいない間、秘密を暴こうと個人的な書類と納税申告書などいくつか発見した。

結婚して3ヶ月後、2人はいかだ下りに出掛けた。

すると、急流の中無理やり岩にいかだをぶつけようとした為、恐れたクラフトはロスに離婚を申し立てた。

離婚後、間もなく3人の子供を持つメアリー・ジョー・フィリップスと出会い、友達となる。

ロスはフィリップスを口説くが、フィリップスが過去に癌にかかり保険に入れない事を知るとロスは関係を絶った。

ロスは息子のリトルリーグの試合で、シンシア・ルークス・バウムガルトナー (1957年生) と出会う。

バウムガルトナーは独身であったが、10代の子供 (タイソンとライリー) がいる母親であった。


1990年8月、ロスはバウムガルトナーと結婚し、ネバダ州ラスベガスへ向かった。

ロスはバウムガルトナーの家を売り、ワシントン州ウッディンビルにある大きな家を購入し、そこに住み始めました。

バウムガルトナーはロスが自分をコントロールしようとしている事に気付き、ロスとの結婚を後悔するようになった。

ロスはバウムガルトナーとその息子たちを虐待した。


1991年7月23日、ロスはバウムガルトナーと息子2人を連れワシントン州にあるサマミュシュ湖 (ちなみにこの湖はかのテッド・バンディも犯行に及んでいる) に日帰り旅行に出掛けた。

ロスは2人の息子を置き去りにし、水深11フィート (約3.4m) のサマミュシュ湖にバウムガルトナーといかだを出した。

数時間後、ロスのいかだは戻って来るが、バウムガルトナーは意識がない状態であった。

すぐに病院に運ばれるがバウムガルトナーは死亡した。

ロスはスピードボートがいかだをひっくり返し、その結果、湖に投げ出されたバウムガルトナーが溺れたと主張した。

しかし、警察はロスに対して疑惑を抱き、有力な容疑者とするが、ロスが殺害したという確固たる証拠は何もなかった。

ロスはバウムガルトナーの約40万ドル (約4000万円) の生命保険を受け取る手続きを行い、また、遺体をすぐに火葬しようとした (バウムガルトナーの両親が強く反対した)。


捕まらないと自負していたロスであったが、同年10月8日、殺人容疑で逮捕された。

だが、捜査官も検察官も初めから有罪を下す事は困難だと考えていた。

それはロスがバウムガルトナーを殺害したという物理的な証拠が一切なく、また、目撃者もいなかったからだった。

捜査官はロスの前妻や家族、友人や隣人に聞き込みを行い、ロスのこれまでの異常な暴力性や動機が金銭的なものであり、繰り返し保険会社を騙そうとしていた事を聞いた。

また、雇用主も騙し、職場で盗みを行っていた事も判明した。

ロスは自動車整備士として働いていたが、その仕事ではとても送れないような贅沢な生活をしていた。

それらほとんどが保険金で賄われている事がわかった。

ロスが標的としたのはシングルマザーで、金銭で誘惑し言葉巧みに保険に入らせたり家を売らせた。

バウムガルトナーの古い友人は、彼女の遺書やその他の持ち物が金庫から紛失しており、ロスがバウムガルトナーの死からわずか2日後にその金庫を開けたと述べた。

ロスはバウムガルトナーの息子を養子にするよう遺言を作成していた事もわかった。

ロスの計画はバウムガルトナーの保険金だけではなく、遺族の利益を得る事が出来、それにより働かずに優雅な生活を送るようになった。

バウムガルトナーは友人にロスとの離婚を話し望んでいたが、宗教的な信念の為にそれが叶わないと話していたと述べた。

また、ロスの子供たちへの虐待は苛烈で、ベルトで叩いたり真冬に下着のみで長時間立たせたり砂利の上にひざまずかせるといったものだった。

ロスは「ハンバーガーヒル」や「フルメタルジャケット」といった戦争映画を好んだ。

捜査官は子供達と話し、その厳しい罰を確認した。

以前、友人であったグッドウィンは、ロスが娘を誘惑した事や1988年に行った強盗について知っていたが、ロスを恐れて報告しなかったと述べた。

ロスの職場の同僚は、ロスがバウムガルトナーについて非常に残酷な行為を話す事が日課であったと述べた。

また、バウムガルトナーとの結婚は「契約」と述べていた。

捜査官はミランダの死についても調べ、バウムガルトナーと状況が非常に酷似している事がわかった。

令状を発行されキング郡の自宅を調べると、いくつかの犯罪や不正行為の証拠が発見された。

ベトナム戦争に関する本や雑誌、軍服やメダル、クローゼットの中からウェットスーツが見つかったが、ロスはバウムガルトナーが溺れた際に泳ぎが苦手で助けられなかったと主張していたが、そんなロスが所持するものではなかった。

銃器は見つからなかったが、手裏剣やヌンチャク、ナイフや釘が打ち込まれたバット等、自家製の武器がクローゼットからいくつも見つかった。

ロスは女性との性行為の際、パイプカットを行ったので問題ないとして膣内射精を強要した。

サマミュシュ湖でいくつかの再現による検証が行われ、ロスらが使用したいかだをひっくり返すのは事実上不可能である事が判明した。

また、いかだから落ちた場合、岸に向かう前に急速に沈む事がわかり、そんな状態でバウムガルトナーを抱えて泳ぐのは無理であると結論付けられた。


1992年3月、裁判が始まり、法廷は被害者の家族や友人、報道機関によって埋め尽くされた。

法廷でロスについて証言した親族や旧友はほとんどいなかった。

弁護士は悲惨な事故で2人の妻を失った不運で悲劇な夫だと主張した。

検察はロスを感情の欠落した貪欲な人間だと主張し、妻や子供よりもお金や車を大切にさたと述べた。

100人以上の証人が証言し、スキューバインストラクターはロスが訓練を重ねた熟練の水泳選手であったと証言し、クローゼットから見つかったウェットスーツについて説明した。

バウムガルトナーを助けられない程泳ぎが苦手だというロスの発言を否定した。

目撃者はライフガードが持ち込まないよう警告したが運び、転覆したにも拘わらずいかだを落ち着いて運び浜に着けたと証言した。

また、いかだが完全にひっくり返ったとロスは述べたが、バッグなどいくつかの持ち物を持っており、またサングラスを掛けていた。

ロスは1週間に渡って20時間以上法廷で証言した。

検察官はロスの発言の矛盾に対して異議を申し立て議論が行われた。

陪審員は8時間の審議の末、ロスに対し第一級殺人、第一級窃盗、第二級窃盗で有罪判決を下した。

ロスは殺人罪で50年、窃盗罪で1年の懲役刑を言い渡した。

ロスが仮釈放の資格を得るのは2029年であった。

ロスの元妻であるサンチェスは、離婚を望んだ理由は分からないが、ロスとの結婚生活は幸せだったと話し、ロスを擁護し続けている。

犯罪作家アン・ルールは、自身の著書「A Rose for Her Grave (彼女の墓のためのバラ) 」で、女性への殺人事件をプロファイリングしていた。

本は全部で528ページなのだが、ロスの事件だけで341ページも割いている。



《殺人数》
3人?

《犯行期間》
1977年?~1991年7月23日?



∽ 総評 ∽

ロスは冷酷で良心が欠落し、また、プライドが高く自意識過剰という典型的なサイコパスであった。

そんなロスの犯行は確実な証拠がなく、実際ロスが100%犯人とは断定出来ない。

だが、全ての事由を考えればロスは限りなクロであり、99%犯人と断定して差し支えないと思う。

「疑わしきは被告人の利益に」と言われるが、例えば1件の事件のみであるならばそういう考えは十分有効だといえる。

しかし、このロスの犯行は歴代の妻や知人の女性など、1人2人ではなく、何年にも何人にも渡っている。

これが偶然やたまたまといった事で片付けられるのなら法律も司法も何の意義もなさなくなる。

正直、このロスは外に放ったら「百害あって一利なし」であり、危険極まりない存在である。