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ベニート・ムッソリーニ (イタリア)
【 1883 ~ 1945 】



1940年6月10日、ムッソリーニは連合国であるイギリスとフランスに宣戦を布告する。


同年9月27日、イタリアとドイツ、日本による日独伊三国同盟が締結され、イタリアは枢軸国側の中心国家となった。

イタリアはフランスとの国境に進軍するが、極寒のアルプス山脈で兵士が凍傷に遭い、国境での攻防でも損害を受けてしまう。

しかし、ドイツの活躍によりフランスが全面降伏した為、イタリア軍は多数の死傷者を出すも事なきを得た。

その後、ムッソリーニはヒトラーからの要請で北アフリカ侵攻を行い、スエズ運河を制圧すべくエジプトに侵攻する。

そして、次にギリシャを攻撃するが、ギリシャ軍の激しい抵抗に遭い敗北する。

この戦闘で15万人以上が死傷してしまう。


また、北アフリカ戦線も大いに苦戦し、イタリア軍は敗北に敗北を重ね、1942年10月、イタリア軍はほぼ壊滅してしまう。

これらの敗戦は要因は、戦争開始時点からイタリア軍がまともに戦える状態になかったからだった。

イタリアはかつてのエチオピア侵攻によりすでに財政が破綻しており、強力な軍を形成する事が困難となっていたのだった。


1943年7月10日、連合国がイタリアに侵攻する。

15万の連合国軍がシチリア島に上陸した。

ムッソリーニと戦争に嫌気がさしていたイタリア国民は、連合国を解放者として迎え入れた。

ムッソリーニは公に姿を現さず隠れていたが、軍とファシスト政権の高官はムッソリーニの戦争での失態に激怒した。

そして、ムッソリーニ排除の動きが見られるようになる。


同年7月24日、ムッソリーニはファシズム大評議会に出席し、最高幹部が集まった。

ここでムッソリーニ解任が発議され可決した。

ムッソリーニは国王により軟禁され、その後、グラン・サッソの軍病院に移った。


ムッソリーニは山頂に幽閉されるが、同年9月9日、連合国軍のイタリア本土侵攻を知ったドイツ軍がイタリアに援軍を送った。

そして、精鋭部隊がムッソリーニを牢獄から救出した。

ヒトラーはムッソリーニをドイツが支配するイタリアの進駐地域の統治を依頼する。

この頃、ムッソリーニは胃癌が進行していた為、初めは断るが結局引き受ける事にした。

しかし、連合国がイタリア南部から北部へ進行し、反ファシズムのパルチザンが北部を制圧すると、ムッソリーニと愛人のクララ・ペタッチはスイスへの逃亡を試みる。


1945年4月28日、ドイツ軍が退却する中、ムッソリーニとペタッチは車でオーストリア国境へ向かう。

だが、コモ湖付近で車を止められ、パルチザンにより捕縛された。

この時、ムッソリーニはオーストリア軍の軍服を着ていた。

パルチザンは略式裁判を開き、ムッソリーニを有罪とし、銃殺刑を言い渡すと直ぐ様執行した。

享年61歳。

ムッソリーニの遺体はミラノへ護送され、駅にある大広場に放置されると、群衆に物を投げられたり踏まれたりした。

その後、遺体は吊るされ晒しものとなった (ムッソリーニの他に愛人のペタッチと他3人も吊るされた) 。


最後に民衆に演説で語ったムッソリーニの発言で終わりたいと思います。

「ファシストのイタリアは完全無欠のチームとなった。これは決して壊れる事はない」



《就任期間》
1922年10月31日~1943年7月25日



∽ 総評 ∽

「独裁者のパイオニア」といわれ、その手法はかのアドルフ・ヒトラーも模倣した。

独裁者となるまでの手腕は流石であり、それはヒトラーのみならず多くの独裁者が模倣とする程であった。

だが、ムッソリーニが良かったのはそこまでで、トップとしての能力は皆無で無能な人間であった。

政治もそうだが軍事、外交何をとっても特筆すべき所がない。

正直、政治家としても戦略家としても模倣されたヒトラーに遠く及ばない。

ヒトラーの失敗はムッソリーニを信頼し盟主とした事であった (ただそもそもヒトラー率いるナチスドイツと協力出来るのはイタリアくらいしかなかったが

第二次世界大戦では地中海制圧を夢見、南フランス、ギリシャ、北アフリカへと戦略を展開するが、ことごとく敗北し、仕舞いに連合国に攻め込まれる始末であった。

ヒトラーからすれば「もっと頑張れよ」と内心正直思っていたであろう。

確かにムッソリーニが南フランス、ギリシャ、北アフリカ (スエズ運河) を順調に支配下においたのなら第二次世界大戦は枢軸国が勝ったかもしれない。

ムッソリーニは最後、愛人と共に捕まり死刑判決となり死体は大広場で吊るされ晒された。

その様子は現在もネットで確認出来るが、強硬な独裁者にとって相応しい憐れな最後といえる。