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デイジー・メルケル (南アフリカ)
【 1886 ~ 1932 】



デイジー・ルイーザ・C・メルケル (出生名デイジー・ハンコーン=スミス) は、1886年6月1日、南アフリカ共和国東ケープ・グレアムズタウンのセブンファンタインズで生まれた。

メルケルは11人兄弟の1人であった。

12歳の時、メルケルは父と兄弟2人の4人でローデシア (現ジンバブエ) ・ブラワヨに引っ越した。

3年後、メルケルはケープタウンのグッドホープ神学校の寄宿生となり、南アフリカに戻った。


1903年、メルケルはローデシアに戻ったが、再び南アフリカに戻りダーバンにある養護学校に通った。

メルケルはローデシアにいた時、ザンビア・カブウェの公務員であったバート・フラーと出会い恋に落ちる。


1907年10月、メルケルとフラーと結婚する予定であったが、フラーが黒水熱 (マラリアによる合併症) にかかり、結婚日のまさにその日、ベッドサイドでメルケルと一緒にいた時に死亡した。

この時、フラーは遺言で婚約者であるメルケルに100ポンド (当時のレートで約300万円程度) を遺贈とした。


1909年3月、フラーの死から約18ヶ月後、メルケルはヨハネスブルグの配管工ウィリアム・アルフレッド・カウル (36歳) と結婚した。

夫妻には5人の子供が生まれるが、最初の2人は双子だったが幼児期に死亡した。

3番目の子供は肝臓の膿瘍で死亡し、4番目は生まれながら痙攣と腸のトラブルに悩まされ15ヶ月で死亡した。

結局5番目の子供ロードス・セシル (1911年6月生) だけ生き残った。


1923年1月11日早朝、カウルはメルケルにエプソム塩 (硫酸マグネシム) を盛られ、病気となる。

カウルは病院に向かうが、医師はたいした病気ではないとした。

だが、カウルの症状は急速に悪化していき、メルケルは隣人に助けを求めた。

2人目の医師が到着する頃にはカウルは耐え難い痛みに苦しみ、顔が青ざめ、口から泡を吹き、間もなく死亡した。

医師はストリキニーネ中毒を疑った為、死亡証明書の署名を拒否した。

検死は外科医のファーガス博士によって行われ、死因は慢性腎炎、脳出血だと認定された。

カウルの財産は唯一の相続人であるメルケルが受け取り、その額は1795ポンド (約5000万円) であった。


1926年、メルケルは別の配管工ロバート・スプロート (46歳♂) と結婚する。


1927年10月、スプロートは病気に苦しむようになる。

その様子はカウルと同様で、激しい筋肉痙攣を引き起こした。

だが、症状は次第に回復した。

数週間後、スプロートはメルケルとビールを飲むと、再び体調が悪くなる。


同年11月6日、スプロートは死亡するが、検死を行うと動脈硬化と脳内出血がみられた。

スプロートの死後、メルケルは4000ポンド (約1億2000万円) 以上を相続し、更に年金基金560ポンド (約1700万円) が支払われた。


1931年1月21日、メルケルは配管工のシドニー・クラレンス・デ・メルケルと結婚する。


同年2月、メルケルはヒ素を入手する為に、前姓であるスプロートの名前を使い、猫を処分するのに必要だと話し購入する。


同年3月2日、息子ロードス (この時20歳) が職場でメルケルが用意してくれた魔法瓶に入っているコーヒーを飲むと苦しみ始める。

また、同僚のジェームズ・ウェブスターも苦しみ始めた。


コーヒーを少ししか飲まなかったウェブスターは回復するが、ロードスは同年3月5日正午に自宅で死亡した。

死因は脳性マラリアと診断された。

翌日、ロードスは埋葬されるが、メルケルはロードスの生命保険で100ポンド (約300万円) 受け取った。

しかし、ロードスの死を不審に感じた警察が捜査を進めると、過去にメルケルの夫たちが相次いで死亡している事がわかる。


1932年4月15日、警察はロードス、スプロート、カウルの遺体を掘り起こす許可を裁判所から取得する。

最初にロードスの遺体が調べられ、保存状態があまりに良かった為に法医学者はすぐに大量のヒ素を疑った。

案の定、内臓や背骨、髪の中からヒ素が見つかった。

また、カウルとスプロートからはストリキニーネが見つかった。

椎骨がピンク色に変色しており、これは当時、一般的な見解であった。

また、ロードスの同僚で一緒にコーヒーを飲んだウェブスターの髪や爪からストリキニーネが検出された。


同年4月末、警察はメルケルを逮捕し、3件の殺人で起訴した。

事件が公になると、国民の関心は非常に高まり、新聞など多くの記事で取り上げられた。

ヒ素をメルケルに譲った人物も警察に出頭した。

メルケルの裁判は30日間続いた。

スプロートの弟ウィリアム・スプロートと母ジェーン・スプロートは、スプロートの遺産の返済をメルケルに求めた。

だが、メルケルはあくまで贈答品であり、返す必要はないと主張した。

民事訴訟でウィリアムは勝利し、メルケルは法外な法的費用を支払わなくてはならず、資産を全て売却しなければならなかった。

ただ、それでも足りなかった為、メルケルは破産宣告した。

カウルとスプロートの体内からストリキニーネが発見されたのは間違いないが、それが死因なのか証明出来なかった。

その為、裁判官は
「それは私を説得するものでも被告人を有罪にするものでもない」
と述べた。

しかし、元夫殺害では確実な証拠には至らなかったが、息子ロードスに関しては殺したという事実は避けられなかった。

裁判官はメルケルに死刑判決を下したが、その時、メルケルは顔面蒼白となっていた。


1932年12月30日朝、無実を主張し続けたメルケルの死刑が執行された。

享年46歳。

メルケルは結局息子殺害のみで有罪判決となり、元夫2人を中毒にしたという告発は証明されなかった。



《殺人数》
3人 (他容疑多数あり)

《犯行期間》
1923年1月11日~1931年3月5日



∽ 総評 ∽

『Johannesburg Black Widow (ヨハネスブルグの黒い未亡人) 』と呼ばれ、実の息子と元夫2人を殺害した
メルケル。

メルケルは保険金目当ての犯行であったが、女性による同様の事件は非常に多い。

女性のシリアルキラーは大まかに2種類あるとされ、その内の1つが「強欲で冷酷、時間を掛けて相手を殺す」と言われているが、まさにメルケルがそうであった。

こういった鬼女は家族や実の子供という概念はなく、人間を「金」としか見ていない。

むしろ家族は身近で狙い易い相手としか思っていない。

ただ、元夫2人の体内からストリキニーネが発見されたが、それが直接の死因かは不明であった。

メルケルは最初の婚約者とはおそらく普通の愛情で繋がっていたと思われるが、病気で死亡してしまい失意の内に100ポンドが手に入り、お金の魅力に取り憑かれたと思われる。

5人の子供の内、最初の4人は立て続けに死亡したが、おそらくこれらは保険金を手にしていない事から偶然だと思われる。

こういったお金の為に容赦ない女性は個人的に最も恐ろしいと感じている。