_20200513_195447
ニコライ・ダディン (ロシア)
【 1973 ~      】



ニコライ・アルカジエビッチ・ダディンは、1973年12月22日、ロシア (ソ連) ・イヴァノヴォ州ミハルコヴォで生まれた。

幼少期、ダディンは父アルカジーに暴行された。

また、アルカジーはダディンに狩猟を教え、死んでまだ暖かい動物の解体方法等を教えた。

しかし、ダディンはそれらアルカジーからの教えを嫌っており、その事に悩まされた。


1987年12月2日、ダディンは銃身を切断した散弾銃でアルカジーを撃って射殺した。

この時、ダディンはまだ13歳であった。

1年後、ダディンは強姦で逮捕され、その時、父親殺害を告白した。

裁判が行われるが、ダディンは父親を殺害した時14歳未満であった為、死刑になる事はなく7年間の懲役刑となった。


だが、ダディンは政権への反抗、暴動を組織し、脱獄、囚人への殺人未遂等、数々の違反を繰り返した為、釈放されたのは12年後の2000年であった。


2002年2月15日、ダディンはフールマノフ通信会社の従業員 () を殺害する。

ダディンはアルコール中毒であり、酔った状態で従業員の頭部を硬い鈍器で殴った。

従業員の女性は頭蓋骨を粉砕され死亡した。


同日、ダディンは地元の縫製工場の従業員2人を殺害した。

ダディンは女性を誘う事に決め、2人に声を掛けるが無視された為、ナイフで刺し殺したのだった。

1人目は28ヶ所、2人目は32ヶ所刺されていた。


ダディンは休暇中の同年5月1日から2日にかけて女性を誘拐し、殺害した (この女性はダディンが逮捕されるまで発見されなかった) 。


同年5月8日、酔った状態のダディンは、通りにある適当な家を襲い、家主のアンドレイ・ポロゾフ () をノコギリで切りつけその後発砲して射殺した。

続いてポロゾフの妻を射殺し、最後は夫妻の娘 (11歳) をナイフで滅多刺しにして殺害した。


同年5月10日、ダディンは同じように家を襲い、3人を殺害した。


同年6月4日、ダディンが更に2人を殺害すると、すでに市内はパニックとなり混乱をきたしていた。


同年7月17日、ダディンは新たな殺人を犯そうとした所を逮捕された。


同年8月6日、ダディンは殺人の動機について、

「自身の尊厳を傷付けた人々を殺す事だ」

と語った。


2003年12月、ダディンはイヴァノヴォ地方裁判所で特別政権下の植民地での終身刑が言い渡された。

ロシアの最高裁判所も判決を支持した。

現在、ダディンはホワイトスワン刑務所で刑期を務めている。



《殺人数》
13人

《犯行期間》
1987年12月2日~2002年6月4日



∽ 総評 ∽

『The Grim Maniac (残忍な狂人) 』と呼ばれ、実の父親を含む13人を殺害したダディン。

ダディンは父親からの教育を嫌いまた暴力を振るわれた事で怒りが蓄積され殺害に至った。

殺害時、まだ13歳という若さであった (20日後に14歳になるが) 。

ただ、1年後、父親殺害がダディンの告白で判明したという事は事件が解決していなかった事になる。

捜査が杜撰だったのかまさか13歳の子供に殺されたとは想像もしなかったのかよくわからない。

ダディンの異常性は父親の影響もあると思われるが、遺伝的に元々備わっていた可能性も高い。

ダディンは父親殺害では若過ぎるという事で軽微な罪となり、釈放後は殺人をこれでもかと繰り返した。

しかも、家族を襲ったり会社の従業員を襲ったり特に標的を定めず無差別に殺害した。

当然、街もパニックとなる惨劇であった。

ダディンは最初に逮捕された際、本来7年で釈放される所を刑務所で数々の暴挙を繰り返した為、12年刑務所に収監される事となった。

問題は刑期が延びた事ではなく、これ程危ない人間だとアピールしているにも拘わらず結局釈放してしまっている所だ。

釈放しなければその後の被害を防げたと思うと悔しくてならない。