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ニコライ・サハロフ (ロシア)
【 1954 ~ 1979 】



ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・サハロフは、1954年4月22日、ロシア (ソ連) ・ヴォログダ州ネポチャゴヴォで生まれた。

父親は身体障害者で早くに亡くなり、その為、サハロフは集団農場労働者の母ガリーナ・アレクサンドロヴナと一緒に生活を送った。

学校でのサハロフは規律正しく真面目であったが、勉強は苦手であった。

サハロフはコムソモール (マルクス・レーニン主義党で主に共産党の組織。青年団の一種) のメンバーであり、後に軍隊に入隊した。

その後、国営農場でトラクターの運転手として働き始めた。


1974年からヴォログダ国際特別拘留センターで警察官として働いたが「逮捕者との繋がり」により解雇された。

しばらく仕事を見つける事が出来なかったが、刑務所の監督者として働き始めた。

サハロフは生粋の女性好きで、女性を惹き付ける方法を見つけた。

結婚したが多くの愛人がおり、愛人との性行為について妻に隠さず話した。

その為、サハロフは離婚する事となる。


1977年1月、サハロフは少女に対して強姦と殺人を始める。

犯行は同年12月まで行われ、5人の少女が行方不明となるが、ヴォログダの住民は恐怖で震えた。

少女は痕跡もなく消え死体も発見されず、5人であった行方不明者が噂が噂を呼び犠牲者は数十人に膨れ上がり、町はパニックとなっていた。

警察は事件解決に動き出し、ウラジーミル・ドロフェロフ率いる特別調査チームが結成された。


同年10月25日、規律違反で解雇されると犯行は加速していく。

サハロフは警察が自分を探している事を知っていたが、殺人を止める事は出来なかった。

最後の犠牲者は同年11月にマイスキーから姿を消した少女であった。

しかし、この時に目撃者がおり、これが最初の手掛かりとなった。


警察が犯行現場周辺で見張りと張り込みを行い、同年12月15日、パトロールしていたパトカーによってサハロフは逮捕された。


1978年1月25日、サハロフは3人の少女、タチアナ・スヴェチナ、ナタリア・ヴィノグラードヴァ、マリーナ・ムーヒナ殺害を告白した。

サハロフは車に乗って街や周辺地域を徘徊し、獲物を物色した。

そして、孤独な少女に見つけると、車に乗って送ると話した。

サハロフは以前働いていた警察の制服を着ていた為、少女たちは何の疑いもなく車に乗った。

その後、郊外の森へ連れて行き、強姦した (ただし強姦したのは3人の内2人で、1人は強姦出来なかったと話した) 。

強姦した後、流木やチューニングキーで殴って殺害し、死体を燃やした。

燃やすと棒で頭蓋骨を粉砕し、残骸をぼろ布に包み川に捨てた。

サハロフは犠牲者の1人から時計とハンカチを、もう1人からは十字架と黄色の金属の鎖を盗み、愛人に渡した。


同年2月、サハロフは脱獄を試みるが失敗した。


同年7月18日から25日の間、ヴォログダで裁判が開かれ、サハロフには共犯者がいる事が発覚した (ただし共犯者は窃盗には加わったが殺人は参加していない) 。

サハロフは裁判所へ護送される際、民衆からリンチに遭う可能性があるとして厳重に守られた。

あまりに多くの人が裁判所へ押し掛けた為、裁判官や関係者が裁判所に入るのに時間が掛かる程であった。

また、ポーチにはスピーカーが設置され、裁判所へ押し掛けた群衆に対して落ち着くよう促された (これは当時としては前例のない事だった) 。

サハロフは全ての罪で有罪判決となり、死刑が言い渡された。


1979年2月5日、銃殺による死刑が執行された。

享年24歳。



《殺人数》
3人

《犯行期間》
1977年1月~同年11月



∽ 総評 ∽

『The Vologda Ripper (ヴォログダの切り裂き魔) 』または『The Vologda Chikatilo (ヴォログダのチカチーロ) 』と呼ばれ、3人の少女を殺害したサハロフ。

サハロフが告白したのは3人だが、犯行期間内にヴォログダでは5人が行方不明となっており、おそらく残る2人もサハロフの犯行で間違いないと思われる。

サハロフは『ヴォログダのチカチーロ』と呼ばれているが、チカチーロの犯行はサハロフよりも後である。

その為、渾名されたのはサハロフの死後であるのは間違いないが、ロシアのシリアルキラーは『○○のチカチーロ』という異名が本当に多い。

それほどチカチーロの名前が知れ渡っているという事だが、個人的にはそういった名前を付ける事を楽しんでいるように思えてならない。