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ニコライ・フェフィロフ (ロシア)
【 1946 ~ 1988 】



ニコライ・ボリソヴィッチ・フェフィロフは、1946年、ロシア・スヴェルドロフスク州スヴェルドロフスクで生まれた。


卒業後、フェフィロフは軍隊に加わったが、1966年に動員解除となった。

その後、隣人の少女を好きになったが少女に拒絶される。

以降、フェフィロフは女性を憎むようになり、後の犯行の動機となった。

数年後、フェフィロフは別の女性と結婚し、2人の娘が生まれた。

フェフィロフは「Ural Worker」という新聞の出版会社の印刷業者として働き始めた。

結婚生活を送る中で、家族で住んでいる家とは別にアパートを借りたいと妻に話すが反対にあい喧嘩となる。


1982年4月29日、コントールナヤのバス停でレーナ・マングシェバ (11歳♀) を拉致すると、近くの森林地帯に連れ強姦しネクタイで首を絞めて殺害する。

殺害後、遺体を枝で覆い隠した。

そして、マングシェバが所持していたリュックサックを物色し、鉛筆ケースと2冊の教科書を盗み、ガソリンスタンドのトイレに捨てた。
 
マングシェバの遺体は翌日に発見された。

警察は捜査を始め、過去に性犯罪で有罪判決を受けた人物に注意を払った。


同年5月5日、マングシェバ殺害容疑でゲオルギー・ハバロフ (28歳) が尋問を受ける。

ハバロフは強姦未遂と強盗で3年の有罪判決を受け、1970年に釈放されていた。

最初の尋問ではハバロフはマングシェバが殺害された4月29日は終日家に居たと話した。


しかし、同年5月7日、尋問に耐えかねたハバロフがマングシェバ殺害を告白する。

だが、犯行現場は曖昧で、殺害方法もナイフで刺したと供述した (実際はネクタイでの絞殺) 。

また、捜査官が失われていた下着やリュックサックについて問いかけても不正確で不鮮明であり、証言をコロコロと変えた。


同年7月17日と18日に2人のハバロフの友人が尋問を受け、事件の日に犯行現場近くでハバロフを見たと証言した。

ただ、日付と時刻の矛盾が生じ、また、ハバロフの親は一日中家に居たと供述した。

だが、検査によりハバロフの血液型とマングシェバに残された精子から犯人の血液型が一致した (後にフェフィロフ逮捕後、検査で血液型が誤って識別された事が判明した) 。


証言や証拠が欠如しているにも拘わらず、ハバロフは裁判にかけられ、同年9月24日、スヴェルドロフスク地方裁判所がハバロフに14年の禁錮刑が言い渡された。

更にハバロフはマングシェバの強姦と殺人等で起訴された。

マングシェバの母親はハバロフに死刑を求めたが、ハバロフは尋問中に捜査官から身体的、心理的虐待を受けていた事がわかった。

だが、ハバロフの死刑を求める多くの声が寄せられ、新たに死刑判決が検討された。


1983年3月23日、スヴェルドロフスク地方裁判所はハバロフに死刑判決を言い渡し、1984年4月27日、死刑が執行された。


1983年8月7日、フェフィロフは女子学生 (22歳) と労働者のグルナラ・ヤクポフ (♀) を強姦し、ベルトで首を絞めて殺害した。

そして、遺体は茂みの中に隠した。

その後、2人の服をスタジアム近くのラズベリーの木の下に隠した。

後にフェフィロフは8月30日、9月23日、10月8日 (または9日) に犯行現場を訪れている事がわかった (ただ、遺体は10月7日に発見されている) 。


1984年5月11日、マングシェバが殺害された場所の近くで、フェフィロフはナターシャ・ラプシナ (11歳♀) を強姦し、首を絞めて殺害する。

その後、ラプシナの性器に棒を挿入し、水で満たされた溝に捨てた。

ラプシナの服は田舎道に散乱しており、遺体は翌日12日に発見された。

ヤクポフの捜査を行うと、ヤクポフの隣人であるミハイル・チトフがヤクポフに執拗に求愛していた事がわかる。

しかも相手にされない事に不満を述べていた。

また、チトフは1984年5月末、路上で少女にいやがらせを行い拘束され、精神神経科の診療所に登録されていた。

警察は厳しく尋問を行うと、チトフはヤクポフとラプシナ殺害を自白した。

だが、チトフは証言をコロコロと変え、犯罪現場を説明する事が出来ず、また、盗品をどうしたのか答える事も出来なかった。

しかし、捜査官はそれらの事は考慮せず、殺害の日に犯行現場近くでチトフを見たという目撃者が現れた為、チトフは逮捕された (だが目撃者の女性は精神病院に通う病人であった) 。

逮捕されてから1ヶ月半後、チトフは刑務所の病院で死亡した。

チトフの死をもってヤクポフとラプシナ殺人事件は解決とされ、捜査は打ち切られた (後にフェフィロフが逮捕された後に刑務所所長は解雇されている) 。


1985年5月6日、フェフィロフは美術・技術学校の生徒ラリーサ・ディアチュク (21歳♀) を強姦し、首を絞めて殺害する。

殺害後、再び性器に棒を挿入し、乳房を切り取った。

一通り終わると服と所持品をその場のあちこちに散りばめたが、指輪や腕時計などは盗んだ。

ディアチュクの遺体は同年5月17日に発見された。


同年6月、2人の未成年のヤシュキン兄弟の知人が兄弟が犯人だと告白した為、兄弟は逮捕された。

しかし、兄弟が事件に関与した証拠が何もなかった。

また、同時にディアチュク殺害容疑で消防士のイヴァン・アントロポフが逮捕された。

専門家によるとアントロポフのジャケットに付着していたペイントがディアチュクのものと一致した為だった。

だが、再検査を行うとペイントに遺伝的な根拠が全くない事がわかった。

しかも、アントロポフには他に動機も証拠もないにも拘わらず、裁判に2度も掛けられた。

結局、アントロポフはフェフィロフが新たな犯罪を犯すまで10ヶ月間拘留された。


1986年5月26日、フェフィロフはウラル州立医学大学の学生オルガ・ティモフィーバ (♀) を強姦し、絞殺した。

殺害後、性器に棒を挿入し、ディアチュク同様乳房を切り取った。

その後、遺体を枝で覆い隠し、腕時計や金の指輪、ズボンを盗んだ。

ティモフィーバの遺体は2日後の5月28日に発見された。

スヴェルドロフスク警察は、一連の強姦殺人事件に類似性を見出だし、犯行は1人によって行われたと結論付けた。

ティモフィーバが殺害された後、捜査にはかなりの人員が導入された。

警察はコントロールナヤのバス停周辺のパトロールを強化し、待ち伏せした。

また、古い事件が見直され、精神神経薬を処方された薬局がチェックされた。

フェフィロフは大規模な捜査が行われている事を知り、犯行現場の変更を余儀なくされた。

主な狩猟場であったコントロールナヤのバス停を止め、代わりに市内の他の地域に移動した。


1987年5月22日、フェフィロフはジェレズノドロジュニ地区でエレーナ・クック (♀) を強姦し、首を絞めて殺害した。

そして、これまで同様棒をクックの性器に挿入し、胸を切り落とした。

その後、クックの遺体を鉄道の堤防近くの茂みに投げ捨てた。

遺体は翌日の23日に発見された。

クック殺害後、ガリエフ、カラショフ、ヴォーデヤンキンの3人が容疑者として逮捕された (カラショフはディアチュクの遺体を発見した) 。

3人はすぐにクック殺害を告白し、また、ヴォーデヤンキンや他4件の殺人も認めた。


1988年4月25日、フェフィロフはブリスキー地区で若い女性を強姦し、首を絞めて殺害した。

殺害後、腕時計や財布、金の指輪や女性が掛けていたメガネを盗んだ。

だが、遺体を隠そうとしていた所をたまたま現場の近くにいた内務省の上級副官エフゲニー・モルドヴィヤニックに拘束された。

逮捕後、フェフィロフはこれまでの犯行全てを告白した。

犯行場所や殺害方法、盗んだ物など事細かに詳細を話し、証言全てが確認された。


フェフィロフの精神医学的検査により正気である事がわかったが、同年8月30日、判決を言い渡される前に囚人仲間に首を絞められ殺害された。


1989年、すでに死刑が執行されていたハバロフやその他逮捕された容疑者たちは無罪となり起訴されずに釈放された。



《殺人数》
8人

《犯行期間》
1982年4月29日~1988年4月25日



∽ 総評 ∽

『The Urals Strangler (ウラルの絞殺魔) 』または『The Kontrolnaya Strangler (コントロールナヤの絞殺魔) 』と呼ばれ、8人の主に少女を強姦し殺害したフェフィロフ。

また、犯行後半には性器に棒を挿入し、胸を切り取るという凶行に及んだ。

フェフィロフはただ自らの欲求を満たす為だけに犯行に及んでいただけであり、警察が勝手に勇み足で次から次へと容疑者を拘束した。

しかも、尋問での返答は曖昧、証拠の欠如、過去に犯罪を犯していたという事だけで有罪としてハバロフに至っては死刑が執行されている。

ただ、ハバロフとチトフに至っては元々犯罪者であり、自業自得といえる部分は正直あるといえる。

解決への焦り住民からの抗議など、犯人逮捕に躍起となった結果と思われるが、ここまで多くの誤認逮捕はそうある事ではない。

やってもいない犯行を次々と自白したのもロシア警察の強引な尋問により自白せざるを得なかった結果であろう。

これは間違いなくロシア (当時はソ連) 警察の失態以外の何物でもない。