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ベニート・ムッソリーニ (イタリア)
【 1883 ~ 1945 】



1922年10月、ムッソリーニの私兵組織「黒シャツ隊」3万がローマへ進軍し、主要な政府施設や鉄道駅を占拠する。

ムッソリーニは国王ヴィットーリオ・エマヌエール3世に首相職を要求した。

当時、国王が首相任命の権限を持っていた。

ムッソリーニはもし任命しない場合、ファシストがローマで暴れ政権を奪うと脅した。


国王には軍隊も警察もいたが、内乱を恐れた国王はこの脅しに屈し、同年10月31日、ムッソリーニを首相に任命する。

首相となったムッソリーニだが、政府の実権は議席数の多い党が握っており、ファシスト党は一握りの議席数しかなかった。


1924年4月6日、総選挙が行われると、ムッソリーニはファシスト党の暴漢を国中の投票所へ配置し、投票所から最初に現れた男を
「我が党に投票しなかった!」
と言って殴れと指示する (実際にファシスト党に投票したかしてないかはどうでもよかった) 。

こうして投票者に対して暴力と警告を行いファシスト党へ投票するよう仕向けた。

結果、暴力と脅迫という不正行為によってファシスト党は3分の2の議席を得る。

だが、統一社会党のジャコモ・マッテオッティがファシスト党による暴力と不正による総選挙は無効だと主張した。

すると、マッテオッティはファシストに拉致され、2度と姿を現す事はなかった。

マッテオッティの遺体は拉致されて2ヶ月後にローマ郊外で発見された。

ムッソリーニの指示によってマッテオッティが暗殺されたという証拠はなかったが、誰の目にも明らかであった。

世間の激しい抗議はムッソリーニに向けられ、それは1919年以来の仲間である退役軍人すら不満を訴える程であった。

迅速な対応が必要だと考えたムッソリーニはマッテオッティ暗殺を否定すると共に

「これまで起きた事の政治的・道徳的全責任を私1人が負う」

と宣言し、ムッソリーニはラテン語で「指導者」を表す「ドゥーチェ」を名乗った。

ムッソリーニは議会で独裁体制の開始を宣言し、すぐに民主主義社会の基盤である独立した司法制度を破壊する。

そして、マッテオッティ暗殺事件を調査する2人の判事を排除する。


1925年7月、マッテオッティを殺害した実行犯に恩赦を与え、その後、2年の歳月をかけて民主的制度を壊滅に追い込んだ。

出版の自由を抑圧し、出版物の検閲を強化して自身の政権に対する批判的な報道を禁止した。


1929年、ムッソリーニはイタリアのほとんどを掌握し、名実ともにイタリアのトップに君臨した。

ムッソリーニは国民に忠誠を誓わせる為に大衆の教化を始め、自身の政権以外にイタリアが生き延びる道はないと信じ込ませた。

学校ではファシスト賛美の教科書のみが使用され (「ファシストの十戒」を覚えさせられた) 、また、家具や衣類、建物等にも自身の写真やスローガンを掲載した。

ムッソリーニは自身のイメージを作り上げ、イタリアの救世主であり現代のカエサル (シーザー) であると演出した。

ムッソリーニは広大な集会場で何千という群衆の前で力強く演説を行い、国民を味方につけた。


1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーがドイツを掌握する。

実はヒトラーはムッソリーニに強く影響を受けていた (よくムッソリーニがヒトラーを尊敬し模倣したと言われる事があるが逆である) 。

ヒトラーはムッソリーニの手法を用いて国民の圧倒的な支持を得る事に成功した (褐色のシャツ隊や大集会、ナチス式敬礼等のルーツはムッソリーニとされている) 。


だが、1934年6月、ムッソリーニとヒトラーが初めて会談を行うが、会談後、ヒトラーの事を認めず、反ユダヤ主義についてもやり過ぎだと非難した。

ただ、ムッソリーニはヒトラーの政治手腕は買っており、また、ヒトラーが自身を尊敬している事に気を良くしていた。

また、この頃、イタリア国内は経済が低迷し、失業率が上昇、国民に不満が募り始める。

そこで、ムッソリーニは国民の怒りを自身や政府から背ける為、敵を作り戦争を仕掛ける事に決めた。

ムッソリーニはアフリカで植民地となっていなかったエチオピアに目をつける。

実はエチオピアには1896年に1度イタリア軍は敗北していた。

ムッソリーニは50万近い軍隊をアフリカに派遣した。


1935年10月3日、イタリア軍がエチオピアに侵攻する。

ムッソリーニは戦争はすぐに終わると踏んでいたが、圧倒的劣勢なエチオピア軍が激しく抵抗する。

その為、イタリアによる総力戦が展開され、第一次世界大戦後に使用を禁じられた化学兵器を使用する。

村を焼き尽くし、300トンもの毒ガスを撒いた。

この行為に国際社会はムッソリーニを非難するが、ヒトラーはムッソリーニを称賛した。


1936年5月5日、7ヶ月の戦争の後、ムッソリーニは戦争の勝利を宣言した。


1937年7月、ムッソリーニがドイツを訪問すると、ヒトラーは
「我が師を迎えるのだ」
と事前に述べ、これ以上ない厚遇で迎え入れた。

そして、両国は堅い友好で結ばれた。


1938年3月13日、ナチスドイツはオーストリアを併合し、1939年にはチェコスロバキアを制圧した。


その後、1939年9月1日にナチスドイツがポーランドに侵攻すると、ポーランドの同盟国であるイギリスとフランスが援軍に向かった。

これによりついに第二次世界大戦が勃発する。

ムッソリーニはヒトラーがヨーロッパ諸国に侵攻している事を好機と考え、イタリアによる地中海世界の支配を夢見る。


③へ続く