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ウラジーミル・イオネシアン (ロシア)
【 1937 ~ 1964 】



ウラジーミル・ミハイロビッチ・イオネシアンは、1937年8月27日、ジョージア国ティビリシでアルメニア人の家庭に生まれた。

子供の頃から歌う事が好きで、その声を聞いた両親は才能があると思い、それを伸ばす教育を行おうと考える。

中等教育に加え、イオネシアンは音楽学校の卒業証書を取得した。

その優秀な成績のおかげでティビリシ州立音楽院に入学した。

コンセルヴァトワールの2年目に劇場で働き、1963年12月13日まで働いた。

ただし、イオネシアンの人生にはいくつか諸説があり、学校にいた時に父親が詐欺取引の罪で懲役7年が言い渡された。

その事でイオネシアンの人生は転落の一途を辿り、1954年に高等学校を卒業した後、窃盗で逮捕され、条件付きの懲役5年が言い渡された。

1959年、大学で勉強している時に軍隊に入隊しようとするが「純粋に神経系の病気」とされた。

その為、入隊検査を行うと医師は役に立たないと結論付けた。

イオネシアンは兵役から逃れたくなかったので、事務所に乗り込み書類を破棄した。

逮捕されたイオネシアンは懲役2年半が言い渡された。

別の説ではイオネシアンは兵役が声の才能を台無しにすると考え、医師の診断により兵役を逃れ、2年の間に父親が逮捕された。

更に別の説では1959年、兵役逃れにより逮捕されたが、1954年から逮捕されるまで前科はなかった。

裁判の後、イオネシアンはゴリの簡易キャンプに送られた。

そこでのイオネシアンは良く振る舞い、耕作も真面目に行った。

しかし、イオネシアンは神経質で自制出来ない為、家に帰るとキャンプに戻らなかった。

その後、逮捕され1年間強制労働を行う事になるが、すぐに釈放された。

釈放後、再び軍隊に徴兵されるが、検査で過度に神経質な性格な為、再度役に立たないと判断される。

しばらくしてイオネシアンはメディアという名のティビリシ音楽院の卒業生の女性と結婚し、息子が生まれた。

だが、給与の高い仕事を見つける事が出来なかった為、集団窃盗を行い逮捕された。

裁判所はイオネシアンの年齢と結婚して子供がいる事を考慮し、5年間の執行猶予を与えて釈放した。

イオネシアンはオレンブルクに移動し、地元のミュージカルコメディシアターでテナーとして働き始めた。


1963年11月、イオネシアンはカザンの劇団員でバレリーナのアレフティナ・ニコラエブナ・ドミトリエヴァ (1942年生) という女性と一緒に仕事をする事となる。

ドミトリエヴァは結婚していたが、イオネシアン家族が住む家の近くに引っ越すと、2人は親密な関係となり不倫関係となる。

ドミトリエヴァは劇場の管理人に適していないと言われ、躍りを学ばなければならなかった。

イオネシアンはドミトリエヴァを助ける事に決め、仕事を辞め家族を捨てた。

そして、ドミトリエヴァに連れ添うが、ドミトリエヴァはイオネシアンにあまり興味がなかった。

その後、イオネシアンは首都モスクワに引っ越すようドミトリエヴァを説得し、リーシスキー駅近くのアパートに住み始めた。

だが、イオネシアンはお金がなく、生活を送る事が出来なかった為、強盗でお金を得る事に決める。

イオネシアンはドミトリエヴァに自分はKGB (ソ連国家保安委員会) で働いていると嘘をついており、しばしば家を空けなければいけないと騙した。

また、身を隠す為に非常に控えめな服装をあえて着ていると話していた。

ガスメーターの検査をする従業員の振りをしてアパートに侵入し、強盗に入る場所を物色していた。

イオネシアンは立派で人の出入りの多いアパートは避けた。


同年12月20日、ソコル地区にあるアパートで従業員を装い、ガス機器の予防検査を口実にコンスタンチン・ソボレフ (12歳♂) の部屋に侵入する。

家にソボレフ以外誰もいない事を確認すると、イオネシアンはナイフでソボレフを滅多刺しにして殺害した。

ソボレフ殺害後、60ルーブル (約6000円) 、ビーチグラス、ケルンのボトル等盗んだ。


同年12月25日、イオネシアンはドミトリエヴァと一緒にイウァノヴァを訪れた。

イオネシアンは再びガス点検の従業員を装い、カリーニン通りのアパートで、ミハイル・クレショフ (12歳♂) を殺害し、上着や2本のペン等を盗んだ。

次に別のアパートへ移動したイオネシアンは、74歳の女性を殺害する。

そして、懐中電灯等を盗んで再びアパートを物色し、ガリーナ・ペトロパブロフスカヤ (15歳♀) を襲い、強姦した後、頭を9回殴った。

その後、セータージャケット、ショールや90ルーブル (約9000円) を盗んで逃走した。

殺したと思っていたペトロパブロフスカヤだが、奇跡的に一命を取り留め、警察に犯人の特徴を伝えた。

その日の夕方、イオネシアンはドミトリエヴァにKGBとして以前行った任務により命を狙われていると嘘をつき、すぐにイウァノヴァを離れなければならないと話した。

2人は徒歩で10kmほど歩いた後、バスに乗ってモスクワへ戻った。

イウァノヴァの事件の後、犯人は「Mosgaz Murderer (モスガズ殺人者) 」と呼ばれるようになる。


同年12月28日、モスクワにあるレニングラードスキー通りにあるアパートで、イオネシアンはアレクサンダー・リソベッツ (11歳♂) を殺害する。

イオネシアンがリソベッツを殴った時、リソベッツはトイレに逃げ込んでドアに鍵を掛けようとするが、イオネシアンが追い抜いてトイレで殺害した。

イオネシアンは何も盗らずに逃走したが、部屋のドアが施錠されていた為、窓を壊して外に出た。


1964年1月8日、シェレチェフスカヤ通りのアパートで、マリア・エルマコワ (46歳♀) を殺害する。

イオネシアンはエルマコワを約20回殴り、靴下や財布、30ルーブル (約3000円) 、テレビなどを盗んだ。

アパートの住人は、若者がトラックに乗って走り去るのを目撃していた。

そして、トラックのナンバー「96-26」を覚えていた住人が警察に知らせた。

警察が近隣を捜査すると、とあるアパートの住人が、隣人が最近はテレビを持ち運び、すぐに売ったと話した。

警察は売られたテレビを調べると、エルマコワの部屋から消えたテレビと同じ物である事が判明する。

そして、警察がアパートで張り込み、住人を待ち伏せして逮捕した。

逮捕されたのはドミトリエヴァであったが、イオネシアンがKGBで働いていると警察に告げた。

すぐに確認するが当然イオネシアンはKGBのリストには載っておらず、イオネシアン捜索が行われた。


同年1月12日、イオネシアンはカザン駅のホームで逮捕された。


調査と裁判はわずか2週間しかかからず、同年1月30日、死刑が言い渡された。

また、最高裁判所はイオネシアンに対し、
「この判決は最終的に決定されたものであり、被告は上訴する事は出来ない」
と述べ、死刑判決は確定されたものだと告げた。

弁護士が恩赦の請願を行うが却下され、翌日の31日、ブチルカ刑務所で銃撃による死刑が執行された。

享年26歳。

当局はドミトリエヴァがイオネシアンの共犯者と考えた。

しかし、イオネシアンがドミトリエヴァは何も知らないと主張し、ドミトリエヴァ自身も何も知らなかったと述べた (実際にドミトリエヴァは騙されており何も知らなかった) 。

法医学専門家もドミトリエヴァが関与した証拠はないとしたが、裁判所はドミトリエヴァを有罪とし、懲役15年を言い渡した。

しかし、1972年 (または1974年) 、ドミトリエヴァは早期に釈放されている。

肝心のイオネシアンの犯行動機だが、当局が判決から執行まで急いで行われた為、確かな事は不明であった。

ただ、イオネシアン本人は「お金を探しただけ」と述べていた。

専門家はイオネシアンは強盗が目的であり、殺人は単に目撃者を殺しただけに過ぎないと述べている。

NTV「Open Mosgaz!」というドキュメンタリー映画で、イオネシアンがルデンコ検事長と個人的に話し合った事実が紹介された。

ルデンコはニキータ・フルシチョフ議長 (首相) のもとへイオネシアンを連れて行った。

会って話すなりフルシチョフは
「2週間以内に彼をこの世からなくすように」
とルデンコに告げたという。



《殺人数》
5人 (他1人負傷)

《犯行期間》
1963年12月20日~1964年1月8日



∽ 総評 ∽

『Mosgaz Murderer』と呼ばれ、強盗目的で5人を殺害したとされるイオネシアン。

公式の発表では動機は強盗とされているが、イオネシアンの犯行全てに当てはまらず、何も盗っていない時もあれば強姦している時もあった。

また、シリアルキラーにありがちな虐待などの凄惨な幼少期を過ごしたわけでもなかった。

個人的には動機というのは知る必要も探る必要もないと思っている。

それを知りたいと思うのは「赤の他人が興味本位で知りたがっている」だけに過ぎないと思う。

犯した犯罪、たたそれだけに注視して刑罰を決めればいい。

よく「動機を解明すれば今後の対策や対処に役に立つ」という人もいるが、仮に解明した所でこういった犯罪は絶対に防げない。

原因が「子供の頃の虐待」だとして、では全ての家庭の虐待を防ぐ事が出来るのか?それは100%不可能だ。

諦めてしまうというのも悲しい事だが、事件は起こるものだと決めつけ、刑罰の重さ厳罰をもって対処するのが最も良い方法だと個人的に思う。

イオネシアンの逮捕から裁判、処刑までたった3週間足らずであり、まるで中国を彷彿とさせる早さである。

また、首相が会うなり「2週間以内に処刑せよ」と命じたというが、それほどイオネシアンの異常性は抜きん出ていたのだろう。

死刑判決後の「これは最終決定でありいかなる上訴も認めない」というのは素晴らし過ぎる判決であり、この時の司法を現代のロシアに見習ってもらいたい。