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ラムジー・ユーセフ (クウェート)
【 1967 ~      】



ラムジー・ユーセフは、1967年5月20日、クウェートで生まれた。

両親はパキスタンのバローチスターン州出身で、家族が1980年代にパキスタンに戻るがユーセフはイギリスに渡り、大学では電気工学を専攻した。

その後、ユーセフはアフガニスタンのアル=カイーダの訓練キャンプに参加し、爆発物の専門家となった。


1992年9月、イラク国籍の偽造パスポートでアメリカへ入国し、ニューヨーク州やニュージャージー州を精力的にまわった。

ユーセフはオマル・アブドッラフマーン (イスラム主義活動家のテロリスト) と連絡を取り、また、イスラエルの政治家メイアー・カハネを暗殺したエル・サイード・ノサイルの家を出入りしていたムハンマド・サラーマーやマフムード・アブー・ハリマらと爆弾を製造した。


そして、1993年2月に世界貿易センター爆破事件を引き起こす。

事件後、ユーセフ自身がニューヨーク・タイムズに犯行声明文を出し、それには

「日本の広島と長崎に投下した原子爆弾のお返しである」

と書かれていた。

爆破事件後、ユーセフはパキスタンのパスポートでイラクへ逃亡した。

その後、ユーセフはパキスタンへ戻り、ベーナズィール・ブットー暗殺を企てるが、警察に阻まれ失敗する (だが結局ブットーは後に暗殺されている) 。

更にタイの首都バンコクでイスラエル大使館を爆破しようとするが失敗した後、イランに入国する。


1994年6月、イランのマシュハドにあるシーア派の聖地アリー・リダー廟を爆破し、26人を殺害した。


同年12月11日、フィリピン航空434便を爆破し、日本人1人を殺害する (負傷者は10人以上)。

ユーセフは1995年1月21日にフィリピンを訪問予定のローマ教皇 (ヨハネ・パウロ2世) を爆殺しようと計画するが (ボジンカ計画) 、予行練習として行ったフィリピン航空434便爆破事件後にマニラのアジトへ戻り、アジア各地からアメリカ行き航空機の同時多発的爆破を計画し、爆弾の製造に着手する。

だが、アジトにしていたアパートで偶然火災が起こり、不審に思われた管理人が警察に通報し、室内に踏み込んだ警察官にユーセフと共犯者が計画していた航空機テロが発覚する。


連邦航空局は厳戒態勢を敷き、1995年2月、ユーセフは潜伏先のパキスタンで逮捕された。


1996年、「ボジンカ計画」の主犯としてユーセフは終身刑が言い渡された。


1998年、世界貿易センター爆破事件の主犯として更に禁錮240年、フィリピン航空434便爆破による日本人殺害で終身刑が追加された。

「オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件」のティモシー・マクベイを長期に渡り取材し、「アメリカン・テロリスト」の著者ダン・ハーベックによると、ユーセフはマクベイや『ユナボマー』ことセオドア・カジンスキーらと爆破事件の犯人という共通点から交遊関係を持ち、『Bombers Row』と呼ばれる一団を形成していた。

ユーセフは特にマクベイと政治思想について活発な議論を交わしており、それはマクベイが死刑執行の為にインディアナ州テレホート刑務所に移送された後もユーセフは他のグループメンバーと交流を続けていた。



《殺人数》
27人 (他負傷者多数)

《犯行期間》
1993年2月~1994年12月11日



∽ 総評 ∽

数々の爆破事件を起こしたユーセフ。

爆弾魔というのはシリアルキラーの中でも特殊で、基本的に犠牲者が何人とか、あいつを狙ってやろうとか、そういった事を気にしていない。

爆弾を製造しそれが思い通りに起動し爆発する事に意義を持つ、特に冷酷で無慈悲な犯行である。

また、このユーセフ同様、爆弾魔は互いに尊重し仲良くなる事が多く、その点も他のシリアルキラーたちとは異なる。

何が恐ろしいかというと、たまたまアパートが火災を起こし爆破計画が露呈したが、それがなかったらアジアからアメリカへ経った航空機が何機も爆破された事になる。

もし実際に起こった場合の犠牲者の数と衝撃度は甚大なものとなっており、考えるだけで恐ろしい。

実際は事件になってないが、実はこんな理由でたまたまならなかっただけであり、世の中にはこのように偶然大惨事にならなかったという事は多々あると思われる。